お坊さんとの対話

いろいろエッセイインド哲学ヨガ
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 先日、ヨガの帰りに駅の地下道を歩いていたら、托鉢をしているのだろう。お坊さんがいた。周囲とは違う空気を放っていて、ちょっと近寄りにくかったけれど、これが初めてではなかったので、わたしは少しばかりのお金をそのお坊さんが持っていたお椀のようなものに入れた。
 そうしたらお礼にということで葉書のようなものをくれた。そして、何と言って会話が始まったのかは覚えていないけれど、お坊さんとの対話、いや問答のようなものが始まった。
 お坊さんは言う。いつの時代にも、どこであっても、今ここはあるのだ、と。その言葉を聞いた瞬間、わたしは「それは本音ではなく建前を言っているな」と失礼ながら思ってしまった。だから、わたしは切り返した。ここはなくてただ幻があって空しかないのではないか、と単刀直入に聞いてみたのだ。すると、お坊さんの目の色がその瞬間変わって、急に本気というか、真剣な眼差しに切り替わった。
 たぶん、お坊さんには建前と本音がある。世間一般の人たちに向けて発する言葉と探求者へのそれとは違うのだ。でも、わたしはそれを責めようとは思わないし、そうするのがもっともだとさえ思っているくらいだ。
 なぜなら、「すべては空です。幻です。夢です」みたいなことを大っぴらに不特定多数の人たちに向かって言ってしまったら、この国や社会が混乱するからだ。毎日、生きていくため、家族を養っていくために、一生懸命、来る日も来る日も仕事をして日々を暮らしている人が「すべては幻ですよ」と言われてしまったら、自分がやっていることが無意味、無価値なものにしか思えなくなるだろう。「自分がやっていることが意味がなくてただの徒労でしかない」。たぶん、普通の人だったらそう思ってしまうことだろう。しまいには自分はこれまで頑張って生きてきたけれど、それさえも幻でしかなかったら、今までの頑張りは何だったんだ、となりかねない。意味があると思ってやってきたことが意味がなかった。それほどつらいことはないだろう。
 あるいは、反社会的な人たちがこの空とか幻だということを聞けば、この言葉ほど彼ら後押しするものはないだろう。幻なんだから何やったっていいじゃないか。人を傷付けようが、大切な物を壊そうが、すべては幻なんだろ、と開き直られかねない。そうなれば、この社会は無法地帯のようになり、連日のように逮捕者が続出して秩序が乱れる。
 そういうことはもう十分、お坊さんたちは分かっているだろうから、テレビや新聞でもあまり大々的にあからさまに「すべては空です」「すべては幻で夢です」などとは言ったりしない。それを言ってしまったら、最悪の場合には、人類が破滅的な核戦争を起こして滅んでしまおうが、地球自体が吹き飛んでなくなろうが、それさえも実在しない幻でしかないのだから、どうだっていいということになる。
 この仏教の思想は使いようによってはとても反社会的であって危険極まりないのは言うまでもないと思う。
 話を戻して、そのお坊さんと話をしていたら、何だか気持ちが落ち着いてきたから不思議だ。わたしはある意味、孤独だった。ある意味だから、実際に完全に一人になって孤立していたわけではない。でも、わたしがヨガの実践をしてきて現実感覚がなくなってきた時にこの感覚に共感してくれる人が身近にいなかった。わたしもそうだよ、そうだったよ、みたいなことを言ってくれる人がいなかったのだ。
 そのお坊さんが、わたしが感じているこの現実感覚のなさに共感してくれたわけではなかったものの、その言葉からは、みんなが現実だと思っているこの世界は空であって実在しない、言ってみれば空想だときっぱりと言った。
 お坊さんはさらに言う。「今、わたしの目の前にはあなたがいますけれど、目をとじればあなたはいなくなります」と一言。。そう、目を閉じれば目の前の人は見えなくなる。そのように、視覚だけではなくて五感のすべてが知覚することをやめた時、この世界はなくなる。いや、それでも世界はあるんだよ。自分が死んでも世界は終わることなく続いていくんだよ、と言いたくなるけれど、それは分からない。少なくとも、わたしにとって世界は五感が機能しなくなればなくなるのではないか。その話を聞いてもっともだなと思った。さらにその話を膨らませるなら、今こうして自分が五感で感じて知覚しているこの世界でさえも欺かれて事実ではないものを見たり、聞いたりしているだけではないのかとも言える。本当にこの世界があってそれを正しく知覚して認識できているのならいい。でも、もしかしたらこの世界自体がそもそも何もない空や無でしかないのに、それをあたかもあるもののように誤認しているだけという可能性も十分ありうる。
 そのお坊さんは禅宗の人のようで、言葉ではなくて座禅を組むことによって感覚的にすべてが空だということを分かったらしいのだ。そして、その何もない静寂、空にこそ安らぎと平安があるとわたしに教えてくれた。わたしはさらに質問する。「そうなると苦しいとか悲しいという感情はもはやなくて、幸せとか嬉しいというのとも違うわけですよね?」すると、お坊さんは「そうです」というような返しをしてくれる。
 言い方を変えれば、喜怒哀楽という感情は何もないところには起こらない。わたしや他者や物や出来事などがあるからこそ、それらに執着して苦しくなったり、喜んで嬉しくなったりしてしまうのだ。
 太宰治は『人間失格』という小説の終わりのほうで、その主人公がたどり着いた真理が「ただ一切は過ぎていきます」ということだったと書いている。けれども、わたしが思うには、それはまだ不徹底で正しくは「ただ一切は過ぎていくように見えます」ではないかと。一切は過ぎていくだけのように見える。でも、事の真相は、一切が過ぎていくように見えていただけではないのか。「一切」そのものが幻でしかなかったのだとわたしは思う。だから、そもそも過ぎていなかった。本当は何もなくてただ空あるいは無だけしかなかったのだから。
 となると、言うまでもなく、今わたしが一生懸命書いているこの文章も幻でしかない。幻のこの世界の中で幻のわたしがこれまた幻の読者の皆様に向けて幻の文章を必死になって書く。まぁ、滑稽と言えば滑稽と言えなくもない。まさに徒労というか、無意味の真骨頂。この世界の営みすべても幻なのだから意味なんてさらさらない(でも、幻の中であってもその中で生きるためには衣食住が必要だけれど)。そう考えると、わたしの中の自暴自棄の衝動が少し動き出そうとするのだけれど、それを見越したのかいないのか(たぶんそこまでは見抜いていないと思う)お坊さんはわたしにこんなことも言ってくれた。「すべてが幻だったらお金とか権力とか手に入れてもむなしいだけですよね?」とたずねるわたしに「それは持っても持たなくてもどちらでもいいんですよ。持ちたければ持てばいいです」というお坊さん。「どうあってもいいんです」とも言う。と、ここでヨガの師匠が前々からよく言ってくれていた「どうでもいい」「どうあってもいい」という境地と驚くほどきれいにつながる。点と点が線になるかのような瞬間だった。すべては幻で、何をやってもやらなくても幻だから究極的には意味はもちろん価値もない。だからこそ、どうあってもいい。空、無、幻だからこそ、それをわきまえていれば不健康に何かに依存して中毒になったりせずに、颯爽と軽快にのびのびと程良く生きることができる。お坊さんはそういうことを言いたかったのではないかと思う。
 さらにはすべてが幻でしかない以上、生きることに意味がないのだから、死ぬことにも意味がない。となれば、よく生きることにも意味がないし、悪く自堕落に生きることにも意味がない。ことごとく意味がない。だとしたら、あえて多くの人たちを虐殺するような事件を起こしたり、自暴自棄になって自死することに何か意味があるのだろうか。あえてそうしたことをやろうとする場合には普通、それらの行為に意味や価値を見いだしているからこそだと思う。つまり、すべてが幻であって空だと言うことは、何をやってもやらなくても、どういう状態や状況になったとしても、それすらも幻でしかなくて何もないのだと喝破することを意味する。
 今、目の前にあるように見えて、五感で感じて関わることができるように思えるこの世界。でも、真相は「何もないんだよ」ということ。だから、何もないだけなのだから、そのこと(加えて、意味や価値がないことなども含む)に耐えられなくて逃げ出したいと思って自ら死んでも、そもそもすべてが空や無や幻でしかないのだから、脱出すること自体が無意味ということになる。そして、輪廻転生の通りに物事が進んでいくのなら、また生まれ変わって、幻の中で人生というこれまた幻でしかないドタバタの愛憎劇を繰り広げて、ということにおそらくなる。
 とは言っても、この幻でしかない人生をどうせ生きるのなら楽しく生きたいものだとわたしは思うのだけれど、多くの人がそう望むのではないだろうか。幻の中とは言えども、その中に生きている多くの人たち(彼らももちろん幻)から嫌われて、後ろ指を指されて、悪態をつかれて、「お前なんか死ねばいい」と罵れるよりは、愛されて、尊重されて、大事にされて、「あなたが好きだよ」と言われた方が心地いいのは明らかだ。自ら率先して、人から嫌われたり憎まれたりすることに最高の喜びを感じるという人は稀なはずだ。実際、昔、わたしはTVゲームの恋愛シミュレーションゲームで登場する女の子たちにわざと不適切な対応ばかりをして嫌われてみたことがある。あれはゲームの中の出来事だと分かっていても楽しくない。女の子たちはみんな怒っていて、わたしのことを嫌っている。あれはきつかった。だから、同じようにこの現実においても、たとえそれが幻でゲームのようなものでしかなくても、その中でうまくいかないのはつらいし、面白くない。
 お坊さん、そして、ヨガの師匠が教えてくれた「どうでもいい」、「どうあってもいいと」いう言葉の意味が幻ということと絡めることによって自分自身の中に落とし込めてきたような感じがする。すべては幻で意味も価値もなくて、実体がない蜃気楼のようなこの世界。でも、たとえこの世界と現実が幻だったとしても、その幻の中で何かを思い、何かを感じて、何かに意味や価値を見出しているわたしがいる。そのことはたしかだ(そのわたしも幻でしかないのだけれど)。だとしたら、それでいいような気がする。つまり、どうあってもいいのだと。この感覚は、お坊さんがひたすら座禅をして「これでいいんだ」と納得したという感覚と近いのだろうか(こういう話もしてくれた)。
 いや、いいとか悪いとか、そんなこととは関係なく空がただある。真理がただある。それがブルース・リーの「考えるな、感じろ」なのかもしれない。言葉では表せない、言えない、言ってしまうと薄っぺらくなってしまう。そんな、繊細な繊細な感覚。ヨガをやっている時に感じるこの何とも言えない静けさ。言葉ではない。ただ、感じる。それがおそらくヨガのゴールでもあるんだろうな。

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