エリートについてわたしが思うこと

いろいろエッセイ
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 わたしの人間関係はとても狭いほうだと思う。社会が何たるかということも分かっていないほとんど井の中の蛙のようなものなのかもしれない。でも、それでも40年近くは生きてきて、いろいろな出会いと別れを繰り返してきた。
 そんなわずかな経験の中から何となく感じてきたことがある。それは総じてエリートのような感じの人と一緒にいるとあまり居心地が良くないということだ。どうも楽しくないと言うか、一緒にいて安らげない。中にはわたしがお世話になっている精神保健福祉士のWさんのように高学歴で高い役職につきながらも、そういったことを感じさせない人もいることにはいる。でも、だいたいというか多くのそうした人とはどうも波長が合わなくて、一緒にいても落ち着かない。
 それは言うまでもなく当然のことなのかもしれない。なぜなら、普通にのほほんとやっていたら人の上に立ったり、専門的で難しくて責任も重い仕事などできないからだ。あるところ、ビシっと線を引くところはしっかりと線を引いてわきまえている必要がある。でないと、そうした仕事などはつとまらない。
 そして、そういうエリートの人と一緒にいて思うことはものすごく頑固な人が多いということだ。自分の意志とか信念があって、とてもはっきりとしていて自分の意見というものをしっかりと持っている。お互いを高め合う同志とか仲間、それもビジネスパートナーとしてはいいのかもしれないけれど、そんな感じの人と四六時中、一緒にいると疲れてくる。頭がいい人というのは、こちらが一を言えば十を知るとまではいかなくても、四とか五くらいは分かってしまう感じだから、うかつなことは言えないし、もちろん誤魔化しなんて通用しない。そういった自分の言いたいことをサクっと分かってくれるのはそれはそれで気持ちがいいことではある。無駄に多くを語らなくてもいいからだ。けれど、そういう感じだとバカなことなんて言えなくなってくる。バカ話ができないのだ。冴えていない程度の低い会話をしてはいけないような、そんな無言のプレッシャーがあると思う。
 また、エリートの人というのは学業や仕事などがきつくて難しい大変なことをやっているので、どうしても自己アピールをしがちだということも忘れてはならない。
 わたし自身のことを振り返ってみても、毎日最低でも4時間くらい読書や勉強をしていた時(昔の話です)にはさかんに自己アピールをしてしまっていた。自分はこれだけやった。○時間もこれこれをやった。だから、すごいでしょ? ね、みんなほめてよ。すごいって言ってよ、みたいな感じで。自分にそうしたストレスがかかっている分、それを中和してくれるような賞賛だったり承認がほしくなってくる。自然な流れと言えば自然な流れ。自分が歯を食いしばってきついことをひたすら毎日やってたら誰かにほめてほしくなったり、ねぎらってもらいたくなるというのは自然な思いであり感情だと思う。
 さらには自分の価値が高いということをやたらと示そうとする人が多い。つまり、誇示しようとする。こちらが聞いてもいないのに友達やそのパートナーがどこどこに勤めているとか、そういったことを言ってしまう。もちろん、そのどこどこというのが世界的な大企業だったりするわけで、その人は意識的か無意識的なのかは分からないけれど、自分の価値をそんなにすごい人をパートナーに持っている人の友達だと言うことによって示して、自分自身をもそれに与らせようとする。
 今ふと思うことは、本当にメンタルが安定していて成熟できている人は高学歴とか一流企業とか目指さないのかもな、ということだ。本当にできる優れた人というのは、自分自身を誇ってもむなしいだけというのをおそらく悟っているからあえて表舞台に立って目立つことはしない(のだろう)。けれども、自分のやりたいことや手に入れたいものについては貪欲にやっていく。そして、それが軌道に乗ってその仕事をしていった結果、その分野で成功する。
 と、わたしが知る限りでのエリートについてざっくりと書いてきた。が、わたしはふと冷静になってこんなことを思う。みんな死んだら平等に骨になるんだなってね。肉体が死んで火葬されて骨だけになっても魂は不滅で、その魂自体に優劣があるのだと言いたい人がいるのかもしれないけれど、そういう話を除けば、単純明快にみんな骨になる。だとしたら、生前どんなにいい暮らしをしていたかとか、すごく頭がいい人だったとかどうでもいいじゃないですか、ってわたしは思ってしまう。それよりも、今、そう、今やりたいことをやれているかどうか。納得した生き方を今できているかどうか。こういうことを言うとわたしのある意味、ストイックな感じの禁欲的な生き方も「意味ないよ、無駄無駄」ということになりかねないものの、もっと突っ込んで言うなら、人生そのものには意味とか価値といったものはなくて、いわば死ぬために生きているのかもしれないなと思えなくもない。では、どうしてわたしが毎朝ヨガをやりに街まで出掛けたり、アダルトなDVDや雑誌をすべて捨てたりしているかと言えば、そうすることが好きだからなのだろう。それを望んで希望しているからなのだろう。となると、趣味の問題? 嗜好の問題? そんな感じになってきそうだ。
 しかし、そんな風にかなりドライに突き詰めて唯物的に無神論的にとらえながらも、わたしには捨てきれないものがある。それは神様だ。ここまで好き放題言いながらも、やっぱり神様はいるんじゃないですかと言いたいし思いたい。
 そうなれば、だ。そうなれば神様がきっとすべての人を救われるはず。悪いようになさらないのならしっかりやってくださるだろう。ってわたしの神学は本当テキトー(笑)。優れたエリートの人もどんなに世間から爪弾きされている人も同一で平等なのではないか。ただ、一方が優れていて、もう一方が劣っているように錯覚してしまっているだけで。聖者から見たらどちらもおそらく肉の塊にしか見えないと思う。それも一時的に立ち現れているように見える波のようなものでしかない、とね。
 じゃあ何で頑張るんですか? 星さん答えなさい。そうですね、やっぱり頑張りたいからじゃないですか。そ、それが答え? はぐらかしていうような気もいたしますが、そういった意図はありませんのでご理解のほどを。「なぜ山を登るのですか?」という質問に「そこに山があるからだ」とある高名な登山家。いや、もっと哲学的な答え方をするなら「登りたいからだ。理由なんてそれで十分だろ?」で終わるのかもしれない。カッコイイ~。だから、きっとエリートの人たちも頑張りたいから頑張っているのです。頑張りたくなかったら頑張っていないので。たぶん、そういうこと。

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