カミソリのような思想をたずさえて

いろいろエッセイインド哲学
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 気が付くとネットをやってしまっている。そして、ほとんどどうでもいいようなページを見て、自分の人生の時間を浪費している。
 骨折してヨガができなくなってから、その朝の時間をわたしは歩いている。そこまではいい。問題は午後の時間の使い方でダラダラ、ダラダラとネットをやっているのだ。
 ネットをやっていると、どうでもいいような情報が次から次に飛び込んでくる。その一つひとつに真面目に向き合っていると、次第に自分の軸のようなものが揺らいできて、自分が何をやりたくて、何に重きを置いていて、どうなりたいのか、といったことが分からなくなってくる。この人はこれがいいと勧める。また別の人はこれがいいと言い、さらにまた別の人はいやいや、これがいいよと違うものをオススメする。この何人かの人たちは検索してきたワードに関連することについてそれぞれ語っているから、そんなに内容に違いはない。でも、若干違うわけで、その少し違うというのがますます混乱する。
 そして、何だか「あなたにはこれが足りないよ」と言わんばかりにダメ出しをされているような感じがしてきて、「そういう時にはこれがいいよ」と自前のおすすめを勧めてくるのだ。
 本当はもう今のわたしは結構、現状にそこそこ満足できているのかもしれない。それなりに持つものは持っていて、不足していなくて足りているのかもしれない。でも、それに飽きたらず、もっともっとと求めて追求していこうとすると、渇きのような足りない感が起こってくる。そして、そこから泥沼へとはまっていく。本当はもう足りているのに、もっともっとと求めたばっかりに押し寄せてくる渇望感。こんな調子ではきっとどこまで行っても満たされることはない。それは分かっている。じゃあどうしたら?
 これは私事だけれど、最近性的な欲求が高まってきて、また女の子と楽しいことをやりたくなってきた。となれば、そこからはもう沼。そして、ネットで検索していけばいくほど、どんどん足を取られていってずぶずぶ深みへとはまっていってしまう。あれ、最初はただセックスしたかっただけだったよね? それが次にはお金を安く済ませるために出会い系のアプリのことへとなり、さらにはなぜかお見合いパーティーとか婚活のことへと、明らかにズレながら逸れている。わたしは結婚するつもりもなければ、したいとも思っていないのに、気が付くと結婚するにはどうしたらいいのか、ということを一生懸命調べている。調べてしまっている。これは徒労であって明らかに時間の無駄遣いだ。
 お見合いパーティーの参加者募集ページをそういうわけで見ていると、だんだんとイライラしてくる。そのほぼ7割か8割くらいのパーティーの参加資格がいわゆる「ハイスペック男子」だけで年収500万円以下はダメらしいのだ。わたしは自分のことをある意味、ハイレベルまでは行かなくてもミドルレベルくらいには捉えていたから、なおのこと、そのことが頭に来てイライラしたのだろうと思う。面白いかどうかと聞かれたら面白いなんてとてもではないけれど言えない。
 そうしたページを見ていると、やっぱり世の中というものはお金が何よりも大事なものであって、「何だかんだ言ってもお金を持っているかどうか次第だよね」と自分が否定されていているような感じがしてくる。
 でも、今、冷静に考えてみると、そうしたハイスペック男子であることが参加資格のお見合いパーティーに参加する男性、さらにはそうしたできる男を求めてやってくる女性も結局は、学歴、仕事が安定していて高収入であるかどうかといったハイクラスなものを大事にしているだけの人たちが群れて集まっているだけのことで、それだけのことと言ってしまえばそれだけのことでしかない。そもそもわたしはそういう年収がいくらだとか、学校はどこを出ているのか、ルックスがいいかどうか、たくさん稼げているかどうかといった基準で男性を判断する女性がタイプなのかどうかと言えばそういう人はあまり好きではなかったりする。そういう女の人は少しでも相手の男性に陰りが出始めるととたんに捨てるような気がする。メリットがなくなったらさようなら、というのがとても分かりやすいのではないかと想像してしまうのだけれど実際どうなのだろうか。その男性が落ちぶれて一文無しになったり、借金を背負うようになったり、病気になったり、要するに逆境になった時に耐えられないのではないかと思う。
 そういう女性が男性に対して経済的な面を要求してどこまでも高い要求をするように、わたしも違う意味で相手の女性に高い要求や理想を求めているようだ。それは一言で言うなら「わたしを絶対に見捨てない人」。でも、そんな人はまずいないだろう。そんな人は自分の母親くらいなもので、多くの大抵の人はメリットがなくなったらその相手を見限って捨てるだろうから。
 メリットが何もなくてデメリットしかないものを求める人はその自分の没落だったり破滅にメリットを見出しているわけで、結局そのことにメリットを感じていることに変わりはない。
 わたしが医者とか弁護士とか経営者、会社の役員などになったら、言うまでもなく、そして手のひらを返したかのようにそうした女性たちがすり寄ってくるのは分かり切っている。と、わたしはそこからインド哲学的思考へと飛ぶわけで。
 その優れた人しかなれない職業に就けた人、反対に仕事に就けず無職の人。そのどちらも同じ価値でしかなくて平等。インド哲学ではそう考える。あるいはこの世界は、そしてそこにある人と物はすべて幻だという可能性もある。
 このインド哲学がものすごい劇薬だということは言うまでもないことで、こう考えただけなのに急に気持ちが落ち着いてくる。普段、問題だと思っていることが問題ではなくなって些細なことでしかないことに気付かされてくる。
 じゃあ、どうして頑張るの?
 頑張りたいからじゃないの? 頑張ることが楽しいからではないの? そのことが好きで達成感があるからじゃないの? つまり、メロンパンよりあんパンの方が好きというだけのことではないか。頑張る方が頑張らないよりも好きだっていうだけのことだ、とね。
 どんなに頑張っても、どんなに手を抜いて適当にやっても、怠けて何もやらくても、それらは外から見た感じでは別々の物事のように見えるけれども同じ価値を持つものでしかない。平等。ただ本当のわたしがあり、その本当のわたしは他の人たちや万物にとっての本当の自分自身でもある。そこで話は静かに終わってしまって、それ以上続けることは難しい。
 でも、わたしは人生初の仕事をしてみようかと思っていますよ。って完全に矛盾というか、少なくとも亀裂は入っているようだけど。
 矛盾を抱えているのが人間(その最たることが賢者や聖者であっても食物を摂って生きてきたということ。菜食であっても植物は殺している)なんだから、あんまりブレをなくそうと神経質になりすぎない方がいい。適当なくらいでいいって言うでしょう?
 頑張っても頑張らなくても同じなら頑張ることに意味はない、のではなくて、意味などなくてそこには頑張るのが好きでそのような感じで行動している人がいるだけ。
 いいんじゃないの。 すべて同じですべて等しいのだからさ。って使い方要注意のカミソリのような思想をぶちかまして一件落着?

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