チャレンジ?

いろいろエッセイ
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 わたしは何を目指しているのだろう? そして、どこへ向かおうとしているのだろう?
 単純で他人の言動から影響を受けやすいわたしは、ある本でその人がこれがいいと言えば「そうだよな」と思い、そしてまた別のある人がこれがいいよと言えばそれに乗せられていい気になってしまい、またそれに沿った生き方なり行動をしてしまう。要するに、自分に確たる軸のようなものがない。
 とは言いつつも、わたしはチャレンジとして毎朝のようにヨガの道場へと通っていて、それは今も続いている。もう少しで1年にもなる。ヨガの師匠から「1年くらいになるね。かなり成長したんじゃないの?」みたいなことを最近言われた。週1とか週3とか、もっと間隔がある人なんかだと月に1回来るかどうかという人もいる中でほぼ毎日のように道場で練習をしているわたし。
 たしかにヨガパワーなのだろう。心身共に強くたくましくなっていい感じになってきた。でも、そのヨガさえも「何のため?」と聞かれると何かを確信しているわけではなかったりする。自分の生き方というか、信念のような確固たる絶対に揺らがない譲れないもなのなどわたしにはない。いわばヨガをすると気持ちがいいから。心地いいからというのがその理由でそれを超えた何かなどは持ち合わせていない。
 なんて、こんなわたしの個人的な話、多分ほとんどの人が興味がないと思う。けれど、わたしにできることはわたし語りをすることくらいだけだから語る。そして、それが誰かにとって何らかの形で役に立つなら嬉しい。
 無職で精神障害と吃音があるわたしのような人間を社会はある意味、冷めた視線で眺めているのではないかということを時々感じる。わたしが「仕事してないです」と言うと途端に手のひらを返したようにそっけない態度を取る人はいる。「精神障害があって」と打ち明けるとこれまた態度が豹変する人もいる。何かそれを言う前と言った後で別の扱いになるというか、急に下に見られるようになるというか。吃音についてもわたしがどもって話す前までは対等な関係だったのに、どもるやいなや急に保護の対象みたいな扱いをされ始める、なんてこともあったりした。
 人はえてして、レッテルというものを貼りたがる。貼ってこの人はこういう人だと決めつけてそれで安心したがる。この人は無職。この人は精神障害者。この人は吃音。この人は優しい人。頭がいい人。穏やかな人。お金持ち。貧乏人。高学歴の人、などなど。そんなレッテルというか属性のような、いわば言葉をその人にしてしまう。
 でも、わたしはわたしで、誰々は誰々でしかない。この分かり切ったことがいつも見落とされてしまう。わたしにはたしかに精神障害者とかもろもろの属性はあるけれど、わたしはわたしだ。わたしがその言葉と同じものであるかどうかと言えばそれは違うだろう。ここで言う「精神障害者」という言葉が世間で言うところの一般的なイメージなのだとしたら、そうしたものと無理矢理イコールにするのはどう考えても無理な話だと思う。わたしはわたしだし、誰々は誰々でその固有のユニークな存在が言葉ではないのは明らかだ。
 と、うだうだ言葉の話をしつつも、わたしはまた最近働いてみたくなっていた。働いてお金を稼ぎたくなったのだ。というわけで、無料の求人誌を駅でもらってきたり、精神科の主治医にその働きたいことを伝えて意見書を書いてもらおうと病院に電話して診察の予約の日時を変更してもらったり、障害者の就労支援などをやっている機関とコンタクトを取ったりした。
 なぜ働きたいのか? 働こうとするのか? わたしの場合は旅行とかもっと習い事とかしたいというのがおもな理由で、さらには家計がカツカツなのをどうにかしたいということもある。お金を稼げばもっと生活の幅が広がるのではないか。わたしはそんなことを思った。もっとお金があれば自由にいろいろなことができるようになる。金銭的なことを理由にやりたいことを諦めなくて済むようになる。
 けれど、はっきり言ってわたしは仕事をしたくない。お金はほしいけれど仕事はしたくない。どこかにわたしを養ってくれる女の人とかパトロンになって出資してくれる奇特な人はいないかなぁなんて思っていてもそんな人はいないだろうから、自力で稼いでお金を得るしかない。昔読んだエロ本の中にあった広告に、これ(宣伝している商品)を買って街を歩いていたらお金持ちで若くて美人な女の子から声を掛けられて、それからはその女の子と毎日ウハウハ生活をしているみたいなものがあったのだけれど、その気持ちすごく分かる。要はみんな働きたくないんですよ。働かないでお金をたくさんほしいんですよ。「わたしはこの仕事にやりがいを感じています。これが使命だとさえ思っています。みんなを幸せにしたいです」なんていう高尚なことを言う人はみんなから「素晴らしい人だ。社会人の鏡だ。尊敬する」とほめられて賞賛されて好感を持たれる。たしかに素晴らしい。でも、わたしは思う。「それならなぜ無給でやらないの?」ってね。本当に人のために生きて人のためになりたいのなら対価としての賃金なんてもらわないでまさにタダ働きすればいいじゃん、って思う。それこそが本当の意味での無私の精神ですよ。そういう意味ではわたしのこのブログは現在収益ゼロでむしろレンタルサーバー代とかドメイン代を払っているくらいなのだから無私の精神を体現して実行できていると言えないか?(笑)
 よく偉い大企業の経営者なんかがビジネス講話みたいな感じで教えを説いているけれど、はっきり言ってあの人たちお金はしっかりもらってますから。それも社員なんかとは比べものにならないだけのお金を。もらっている上でいろいろ言っているわけですから。むしろ社員を安い賃金で働かせて彼らが生み出した利益を持ち去っていく。20万円の給料をもらっている人がどれだけの利益を生み出しているかは知らないけれど、少なくともその利益が20万円ちょうどなんてことはない。あるいはそれよりも少ないなんてことはない。少なかったら無能な人間としてクビにするだろう。20万円の給料を払ったらそれ以上の働きをしてもらわなければならない。でないと会社が発展して大きくなっていかないし、社員たちが給料以下の働きしかしなかったら会社は潰れてしまう。
 とすると都合のいい人間のほうがいいわけですよ。会社にとって。都合がいいというのは、安い給料で文句を言わず、むしろ喜んで一生懸命働いて利益をたくさん生み出してくれるような人のこと。それも1日とか2日ではなくて何十年も、いや、死ぬまで会社のために利益を出し続けてくれたら最高。少ないお金を渡すだけでものすごいたくさんの儲けを作ってくれる。こんな人、最高ですよね。これが行き着くところまで行き着いたのが社畜とかブラック企業だと思う。どこまでも貪欲に会社が社員から利益を搾り取ろうとする。儲けを最優先にして社員の健康なんて考えない。大切にしない。そんなことよりもいかにたくさん働いてもらうかの方が大事。
 とまた、ここまでいろいろ書いてきた。が、最終的にはその人がどういう生き方をしたいかということなのだと思うし、突き詰めればそういうことでしかない。ミニマリズムの有名な考え方に「モノより経験」というのがあるのだけれど、本当そうだなぁってつくづく思う。どんなに高価なモノを手に入れてそれでいっぱいにしても束の間の喜びしか得られないわけで、それに対して経験はその人の脳内に記憶として刻み込まれて死ぬまで失われることがない。読書、旅行、習い事、スポーツなどは経験で、しかも記憶として残る。それにそういったものの方が幸福度が高まるようでどんなにモノを手に入れることに躍起になってもここまでの満足感は得られない。
 だから、わたしはその経験を豊かにするためにお金を稼ぎたいなぁって思うんだ。もちろん読書も貴重な経験ではあるものの、それだけでは限界があるし、活字ではなくて五感で感じるようなことをもっとやっていきたい。そのために働く。正直働きたくないけれど働く。
 理屈とか蘊蓄はこれくらいにして、とりあえずやってみる。そして、やってみて無理だと思ったらまた考える。やりながら考える。そして、また次の行動を移す。トライ&エラー。
 わたしは今まで失敗してはならないと自分に言い聞かせてきたけれど、別に失敗したっていいんだ。まわりに迷惑かけてもわたしのやろうとしていることの規模とレベルから言えば、しくじっても人が死んだり何億円もの損害が出ることはおそらくなくて、たかが知れていると言えば知れている。それにやめたくなったらやめればいい。わたしがそれにかじりついて何が何でも初志貫徹しなければならないということもない。
 なんてここまで書きながらも怖じ気づいて「やっぱ働くのやめました~」なんていうオチが待っているのか待っていないのか、それは分からない。いや、それすらも分からない。でも、それすらも多くの人にとってはどうでもいいことで、わたしがどんな経験をしようが、成功しようが失敗しようが、高まっていこうが下降していこうがまぁ、他人事なわけです。
 ぐだぐだ書きました。書いてしまいました。こんなどうでもいい話に付き合わせてしまったことをお詫びしつつ、あなたも何かチャレンジしたいことがありましたらぜひぜひやってみてくださいまし。思い切って飛び込んでみたら人生変わるかもよ。って人に言いながら自分に発破かけてます。
 失敗上等。失敗しないようにして何もしないのがおそらく人生最大の失敗(って誰かが言ってた)。失敗して当たり前くらいの気持ちでやっていきましょうや。

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