今年は来るのか?

いろいろエッセイヨガインド哲学
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 今年は大丈夫だったけれど来年はどうなるのでしょう? 来年に来るのか、来ないのか?
 何の話をしているかと言うと、わたしが死ぬかどうかということだ。何でもわたしは夢のお告げによれば2月の中旬のある日に死ぬらしい。だから、今年のその日にわたしは震え上がっていた。一昨年のその日にはエンディングノートまで書いて死ぬことに準備をした。でも、一昨年、去年とその日に死ぬことはなくてわたしは生きている、というわけだ。
 その日を2回通り越してクリアーした。でも、来年はどうなのだろう? その夢のお告げは何年後とか何年とは指定してこなかった。ただ2月のある日に死ぬということを告げただけ。
 そのことをヨガの師匠とはまた違う高名なこれまたヨガの先生に打ち明けたら「生きることに執着があるから死にたくないんだよね」とあっさりと返された。
 たしかに。死にたくない、ということは生きていたいということでまさに執着している。的確な鋭い返しでありました。
 いや、もうわたしが何をしようが、どんな対策をしようがしまいが、死ぬ日というのは何年の2月のその日と既に決まっていて神様はそれをご存知なのではないか。それに死んだらもう死んでしまったわけだから、「俺は認めないぞ」なんて言ったところで意味がないし、生き返るなんてこともおそらくない。だとしたら、死んだら死んだで仕方ないのだから、「いつ死ぬのだろう」なんて悶々としていても仕方がない。それよりはとにかく今自分がやるべきことに集中して、いつやってくるか分からない2月の某日を清々しい気持ちで受け入れる。それが一番なのではないかと思えてきた。
 人はみな死刑囚みたいなもの。いつ死刑が執行されるのか分からないけれど、ともかく今はまだだ、というのが本当のところなのだと思う。
 どれくらいあるのか分からないタイムリミット。来年ではないことを祈りつつも、なすがまま、されるがままに大いなる存在に身を委ねることができたら申し分なし。でも難しいよ。やっぱりわたしは凡人なんだろうなぁ。

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