性のあり方は生き方の問題だ

いろいろエッセイヨガインド哲学
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 一週間、ほぼ毎日のように街へ行き、道場でヨガをしてくる。そんな日々が続いているわたし。
 心身ともに整ってきて、わたしが健康的に、そして魅力的になってきたせいか、すれ違う女性たちが大抵チラリとこちらを見る。自分自身でもまさにリア充のような感じがしていて、そのヨガによって鍛えられて逞しくなってきた自分自身の身体を鏡の前で嬉しく眺めたりもしていた。
 でも、その一方でわたしは相変わらず悩みを抱えていた。それは性欲の問題で、どんなにヨガをやり心身を浄化していい感じになってきてもこういう欲望なり欲求がなくならないのだ。いや、むしろ身体を動かしタンパク質をしっかり摂って、それから早寝早起きの理想的な生活をしているせいなのか、前よりもそうした本能的なものは高まっている。健康になればなるだけ、きっと性欲というものがしっかりとわき起こってくるのだろうと思う。自分の子孫を残そうとわたしの中の本能がうずくのだ。
 こうした欲求なり欲望を押さえ込もうと今まで努力はしてきた。でも、禁欲についても一週間もやっているとおかしくなってきて、しまいには一日中、女性のことばかり考えるようになってしまって、これ以上我慢したら性的な犯罪でもやってしまうのではないかという危険な状態になる。清浄になりたい、清らかでありたいと願いながら、その結果おかしくなって性犯罪をする、というのは最もいけないことで論外どころか話にもならない。で、慌ててというか、これはヤバいと思って性欲を発散させるとものすごくスッキリして、何をここまで思い悩んでいたのだろうと違う意味で我に帰る自分がいるという次第だ。
 わたしは性欲がありすぎる異常者ではない。でも、人並みか普通か、それよりも少し強めかくらいにはある。果たしてこの性欲とどう付き合っていったらいいのか。
 と、そんな問題意識を抱えながらネットを渡り歩いていたら、お坊さんのお悩み相談のサイトがあった。ヨガはインド哲学のうちの一派のヨーガ学派の人たちがやっているもので、仏教はそうしたインド哲学へのアンチとして誕生したものだから違いはある。でも、仏教のお坊さんだったらきっとこうしたお悩みに対して鮮やかな回答を示してくれているのではないか。そんな期待とともに、過去になされた質問を読み始めたわたしなのだった。
 そのお坊さんたちの回答はとても大らかなものだった。ざっくりかいつまんで言ってしまうと、性欲があることは悪いことでも何でもなくて人間の本能なのだから仕方がない。排泄のようなものだから出したくなったら出せばいい。すでに自分が既婚者だとかお付き合いをしている人がいるとか、出家して戒律を守る誓いを立てているお坊さんであるとか、そういうことでなければ好きなようにしていい。アダルトビデオを見るのも良し。風俗に行くのも良し。ただ風俗店は病気をもらわないように安いところは避けるとか、相手を選べるお店にするとか、性感染症予防として男性用の避妊具をつけるとか気をつけてね、と。
 この大らかさは何だというくらい大らかなお坊さんたちの回答。でも、まぁこれは日本の仏教の特質なのかもしれないなとも思ったりする。東南アジアの上座部仏教、テーラワーダのお坊さんだったらこんな生ぬるいことは言わないだろう。彼らからしてみたら僧侶に肉食妻帯を認める日本の仏教なんて論外でしかなくて、信じられないはずなのだから。日本のお坊さんには奥さんがいる、という話を彼らは聞いてびっくりするそうだ。
 わたしは清くなりたかった。汚れ一つ、しみ一つすらない清浄な人になりたかったのだ。だから、ヨガをやっているという側面もあったのだと思う。
 でも、そうした美しい清らかな人になれるならなりたいものだけれど、わたしには無理なのかもしれない。実際、性的な禁欲を一週間そこらしか守ることができない自分自身がいて、さらにはお肉だって美味しいから食べている。
 理想と現実。そのギャップに悩んできたわけだけれど、自分自身でどこかに折り合いをつけなければならない。性欲を我慢できないのならアダルトビデオは見るのか見ないのか、風俗へ行くのか行かないのか、いや、それともそういったものに頼らないようにするために彼女でもつくってその人に自分の性的なエネルギーをすべて向けるのか。ともかく自分自身で答えを出す必要がある。誰かはこうするといい。ああしろ、こうしろとわたしにすすめたり、命じるかもしれない。でも、最後にどれを取ってどれを捨てるか決めるのは自分自身だ。ヨガをやるのもやめるのも自分次第で自由だし、何に重きを置いて生きていくのかももちろん自由。さて、どうする? どうしたい?
 人はとかく完璧なものを求めてそれに近付きたいと思うけれど、完璧なものなんてないし、存在しない。だから、完全な存在になるなんて不可能だ。高名なヨガ行者やお坊さんだって美女を見て実際に性行為に及ぶことはなくても、人知れずその欲望と闘っているのかもしれないし、もしかしたら頭の中ではその目の前を通り過ぎた美女の裸をありありと思い浮かべているのかも。
 わたしはできることなら禁欲をして清浄無垢になりたい。きれいになって透き通っていたい。けれど、それはこの長年のわたしの実践、つまり試みからすると無理らしくて、禁欲をしようものならおかしくなって、結果的に爆発して女性を傷つけてしまうかもしれない。それだけは、それだけはあってはならない。
 アダルトビデオも、そしてたまにだったら風俗へ行くのもいいのかもしれない。お坊さんが回答していたように、わたしは妻帯者でも彼女がいるわけでも何か厳しい宗教的な戒律を守ることを終生誓ったわけでもないのだから。
 と、こんな調子でやっていたらきっと悟ることはできないだろう。できるはずなどないだろう。でも、それだったらそれでもいいのかもしれないと開き直ってみる。わたしが解脱するためにはあと1万回は生まれ変わらなければならないのか、それは分からないものの明らかに今生で悟るのが無理そうなのは明らかだ。だったらぼちぼち行きますか。いや、死んだらキリスト教が言う通り、天国か地獄へ直行するのかもしれない。いやぁ、謎ですな。最終的なところは。誰も死んで戻ってきた人はいないからね。
 性のあり方というのはその人を端的に如実に表すことはたしかで、どんなに高邁な理想や美しいことを語っていたとしても、性のあり方が暴力的だったり歪んでいたりすると途端に説得力を失う。「あの先生は立派なことは言うけれど何にも行動が伴っていないからね」と後ろ指を指されること請け合いだ。でも、どんなに性的な嗜癖が歪んでいようとも合法的にかつ誰かを傷つけていなければ問題はないのだと思う。
 などと言いながらも先のこと、未来は分からないから、もしかしたらわたしはインドの山奥で世捨て人としてひそやかに生きているのかもしれない。あるいは、それとは真逆に、男性ストリッパーになり女性たちを興奮させているとか、ポルノ男優になってひたすらセックスをしているのかもしれない(まぁ、まずないだろうけど)。
 ともかく、死ぬ間際に「いい人生だったな」と思いながら死んでいけたらいいな、なんてね。
 性の問題は生き方の問題。それを痛感させられた。今しかできないことをやっていきたい。今だからこそできることを淡々とかつ着実に。

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