キリスト教の勉強、それも特にキリスト教神学を学んでいた時に感じた疑問をふと思い出す。インド哲学のヴェーダーンタの本を読んでいるとキリスト教神学にすごく似ているところがあるのだ。
で思ってしまうのが「それ本当? それって事実なの?」という疑問だ。
たしかにこれがこうで、こうだからこうだ、といった具合に首尾一貫させて論理的に考えて答えを出してはいる。でも、その言っていることのどこまでがフィクションでどこからがノンフィクションなのか? いや、全部フィクションであって虚構でしかないのか? なんて疑いながら読んでいると、らちが明かないことに気付く。というか、その理屈の根拠となっている聖典がそもそも正しいのか、といったことさえ不明確なのだ。だから、キリスト教神学もヴェーダーンタも土台となっている聖書、聖典が崩れてしまえば、もう意味をなさなくなる。
もしかしたら、両者とも知的な理解は必要でありながらも、その土台の聖典の権威を信じることが必要なのではないか。でないと話が始まらない。
ヴェーダーンタもキリスト教神学と同じように様々な立場があり、それらが対立しているのは、その是非を判断する具体的な方法がないからなのだろう。わたしにはどうもフワフワしているように思えてしまう。
真理とは感じて、信じるものなのかもしれない、なんて言ってしまっていいのかしら。空中楼閣なのか、事実なのか。分からないなぁ。

変な人。
普通ではないと思う。
わたしが思っていることを言うとみんなひく。
そして、目の前にシャッターを下ろされて、
まさに閉店ガラガラ~。
わたしは気が付くと蚊帳の外。
なぜなら、今、大人気の
カヤノソトボーイズの2期生の瞑想担当だから。
最近、瞑想してないけど。でも、瞑想担当なんで。
そう、なんか浮いてるの。
この世界、日本という社会から。
わたしは何だかんだ生きづらい人生を送ってきた。
「もっと苦しくてつらい人はいっぱいいる。
お前のは大したことないだろ」、と言うやついるけれど、
苦しさ、大変さ、生きづらさはその人が感じていること。
その人の苦しさを分かっているのはその人だけ。
気が付いたら職歴ゼロ、社会経験ゼロの立派なメンヘラのおじさん。
わたしはしゃべんないほうがいいと思う。
しゃべるとその見た目にあまりにもギャップがありすぎるから。
わたしが自分のことを語れば語るほど、
女の人はがっかりします。失望さえします。
でも、いいじゃないの。
普通じゃないのがわたしなんだから。
わたしは風になりたい。
風になってただ吹いていたい。
【属性】
男。大学中退。吃音。統合失調症。精神障害者。希死念慮あり。現実感の喪失。無職。プロテスタントのクリスチャン。ヨギー。スターシード。英検3級。茶髪。HSPとASDの可能性あり。細身筋肉質。
