価値が存在しないことに気付いて

いろいろエッセイ
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 あなたは価値というものがちゃんと存在していて実在するものだと思っているだろうか? つい先ほどまでわたしもそう思っていた。価値は実在する。厳然とあって疑う余地もない。そんな風に思っていたし、考えてもいた。が、どうやらそうではないらしい。
 ここに1個のリンゴがある。スーパーでは200円で売られている。とすると、このリンゴの価値は200円ということになるのだろうか。
 ここに一人の女性がいる。この女性は自分と結婚したいのなら男性側の年収が800万円以上でなければダメだと言う。だとすると、この女性の価値は1年あたり800万円以上、そして結婚生活が続いていく限りそれが積みあがっていった累計額ということになるのだろうか。
 ここに一人の男性がいて3歳になる娘がいた。その男性は娘を溺愛していてその娘のためであれば自分の命も惜しくないと言う。だとするとその娘の価値はその男性の命と同等ということになるのだろうか。
 これらの例を考えてみるとどれもこれも無理があることに気付けるはずだ。なぜなら、どれも表せないものを表そうとしているからだ。
 もっと言うなら、人間の価値を何かで表現しようとするならすべてお金で換算できる、ということはありえない。リンゴがある。一人の女性がいる。娘がいる。本来はただそれだけのはず。たとえそれに○○円とか、これくらい価値があるんだという表現などをしてみたところで、そのもの自体がその表現されたものとイコールであるということはない。リンゴにスーパーで200円という値段が付けられているとしても、だからといってリンゴそのものが200円と同じではないだろう。そんな金属でできた硬貨とリンゴが同じものということはないはずだ。たとえ、その200円という観念とそのリンゴが等しく交換されるとしても、リンゴは観念ではない。リンゴはリンゴで200円という考えは200円という考えでしかない。
 わたしたちはこの頭でこしらえた考えというものにやられてしまっている。本当はそんなものなど存在しない。存在するかのように感じてしまうけれど、そんなものはそもそも実在してはいない。実際にあるのは、しっかりと今ここにあるのは、さきの例で言えば、リンゴであり、ある女性であり、ある男性の娘だけなのだ。
 このことに気付けた時、わたしは目から鱗が落ちた。そして、何か大きな拘束具から解放されたような、そんな気持ちになった。
 わたしは自分をダメな男だと思っていた。精神障害と吃音があって、働いておらず収入と言えば障害年金のみで生活は決して楽な方ではない。世の普通の健常者で働いていて自活しているような人たちと比べたら本当に価値のない人間だと思っていたのだ。社会のお荷物で何も貢献できていない。そんなわたしを好きになってくれる女性などいないはずだ。そんな自虐的なことさえ考えていた次第だったのだ。そんな価値がないわたしを自分自身で責め続けていた。
 しかし、その価値というものがそもそもないのだと分かった瞬間、すごく気が楽になった。ただわたしがここにこうしていて、存在している。それだけのことで価値だの何だのというのは頭でこしらえたものでしかないと気付けたのだ。もし誰かがわたしのことをダメな奴だとか怠け者だとかだらしない人だと見るのであれば、それはわたしがいて、そのわたしをAさんはダメな奴だと思っていて、Bさんは怠け者、Cさんはだらしない人だと思っているというだけの話であって、それ以上でもそれ以下でもない。また、一方でDさんは仕方がないと思っていて、Eさんはよくやっているという風に見ている。というようにただそれだけのことなのだ。世間がとか社会がとかいう場合であっても、それは多くの人がそう見たり考えたりしているだけのことであって、だからと言ってその評価がダメな奴だという見方をしていても、ただそう思われている人がいるだけであって、決してダメな奴自体が実在しているわけではないのだ。
 わたしは自分のことをダメな男だと思いこんでいたけれど、そもそもダメな男などというものは存在しない。というのは、100%頭のてっぺんから足のつま先まで何もかもすべてにおいてダメな人というのはいないからだ。たとえそれがどうしようもない人のように見えても完璧にダメな人などいない。必ずダメではない部分をも持ち合わせている。しかし、この「ダメ」という言葉はその人自身にそれ一色のレッテルを張って決めつけてしまっていて現実にそぐわない評価をしてしまっている。そう考えると、善人、悪人もいないことが分かる。100%いい人、100%悪い人なんていないからだ。それにいいとか悪いなどと言うためには必ずそれを判定する人だったり基準が必要になるわけで、それはどうしても主観的にならざるをえない。だから、善人も悪人もダメな人も素晴らしい人も実在はしない。実在しているのは目の前にいるその人だけであって、こうした頭でこしらえた考えは実在してはいないのだ。
 また、SNSなどのネットで多くのことが数値化されてしまっているけれど、物事というのは数字では表せない。
 たとえばわたしがある女性のことを好きだとしよう。どのくらい好きかということを何とかその女性に伝えようと思った時に何て言ったらいいのだろう? あるいはその好きだという気持ちがどれくらいなのかを他の人に伝えるにはどう言ったらいいのだろう? これは難問だと思う。結論から先に言ってしまうとそれは言葉にはできない。できないはずなのだ。世界で一番好き。誰よりも好き。これだけ人を好きになったことはない。芥川竜之介の場合は恋文に「食べてしまいたいくらい好き」と書いた。しかし、どんなにその好きだという気持ちを表現しようとして形容してみたところで、その表現された言葉はこの好きだという気持ちそのものではないのだから、やっぱり無理だ。目の前にある1個のリンゴがそのリンゴでしかないように、自分の恋する感情もそのものでしかない。だから、置き換えるなんてことはできない。
 自分の好きだという気持ちを相手に分かってもらうにはどうしたらいいのか? どうすればこの胸が張り裂けそうなくらい好きな気持ちが伝わるのだろうか? となると、気持ちを何か目に見える形で示そうとするのが最も簡単だ。花束を贈る。プレゼントをする。相手のために時間を使う。そうして目に見える形をもって相手に示すことによって伝わりやすくなる。ただ心で思っているのではなくて形として示すということだ。
 でも、それでも自分の気持ちを何かに置き換えることはできなくて、人は必死になって置き換えて伝えようとする。その時人はその相手に価値を見出している。そして、それがほしくてほしくてたまらなくて求めるのだ。しかし、そのことも冷静にというか、俯瞰して眺めるのなら一人の男性が一人の女性に好意を持っていてアプローチをしているというだけの話であって、そこには二人の人間がいるだけなのだ。その際、男は相手の女性にとてつもなく高い価値を見出している。けれど、価値自体は存在していなくてあくまでも主観的に価値というものを生み出しているに過ぎない。あるのは、実在しているのはその女性そのものだけなのだ。
 下手をしたらわたしはその価値というありもしないもののために一生を棒に振るところだった。それが観念であり、頭で拵えただけのものでしかないことに気付けず、いつまでもいつまでも自分の価値を上げようと邁進していたことだろう。男の価値を上げるだの、自分の市場価値を上げるだのと躍起になっていたはず。そんな存在しないものを追い求めていったところで、徒労に終わるだけだということに気付かないままで。
 そんな存在しない観念上のもののために自分をすり減らすのではなくて、もっと現実的にどうすれば毎日を快適に心地良く過ごせるかを考えた方がいい。そう思うようになった。
 とここまで書いてきた。けれど、わたしは世間で言うところのダメな男かもしれないという思いを完全にぬぐい去れたわけではない。けれど、ダメだ何だとレッテルを張って単純化して決めつけるのではなくて、わたしはこのわたし自身と向き合っていきたい。たしかに存在する、実在するのはダメな男というありもしない空想の産物ではなくて、今ここにいる生身のわたし自身なのだ。そして、それだけでいいような気がしてきた。
 金持ちも貧乏人も頭のいい人もそうでない人も、ありとあらゆる人がいる。ただ、そんな愛すべき人たちがいるだけのこと。そこに誰の方が上だとか、価値が高いとか低いとか観念を持ち出すからおかしくなってくる。だから、付け加えるなら平等でもない。ただ、そこにその人が、また別の誰々がいるというだけのこと。
 ただ、いる。ただ、ある。価値というものに振り回されてきたわたしがたどり着いたのはこのことだった。価値って厄介だよ、本当。

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