お金をかけないけれど豊かな暮らしを目指して

いろいろエッセイ
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「障害者年金2級で月10万円もらっています」。この文章をある人のブログで目にした時にわたしは「えっ? 6万5千円じゃなくて?」と聞き返したくなった。そう、障害年金2級、それも国民年金の方の障害基礎年金2級だと一律6万5千円くらいだから、明らかに多いのだ。何か裏技があるのか、と思ったわたしは続きを読み進めた。すると、タネ明かしするまでもなく単純なことで、この人は厚生年金もあわせてもらっていたのだ。
「ず、ずるい」。同じ2級なのに月に3万5千円も差がある。そう思ったわたしはイラつき始めた。その時にはこれって弱者がちょっといい思いをしている弱者をねたんでいるという醜い構図なのでは、などとは気が付かなかったものの、何だかやるせない思いになり、この不平等はは何なんだよと思った。
 そして、その人は自分のブログとかYouTubeの動画とかでどうしたら貯金が作れるかといった節約術なんか披露していて、それがまた何だかわたしの癪にさわったのだった。
 でも、この無神経さは翻って自分自身にもあてはまるということにしばらくしたら気付いた。世の中には苦しい思いをしている人がいっぱいいる。わたしがこのブログで障害年金をもらいつつの日々の暮らしぶりを伝えていることを「年金もらえているだけいいじゃん」と冷めた目で見ているひともいるかもしれないのだ。詳しくは知らないのだけれど、精神障害の2級に該当する状態であってもその障害年金をもらうための条件を満たしていなかったばっかりに年金がもらえないという人もいると何かで聞いたことがある。その人からしたら、その人にはもう選択肢がお金がきつくなってから生活保護か、あるいは障害がありながらも働くしかない。その月10万円もらっているという人も、月6万5千円のわたしもその年金をもらえていない人から見たら明らかに恵まれている。その10万円もらっている人は自身のブログで初診の時に働いていて本当に良かったと心境を吐露している(つまり、働いていて厚生年金に加入していた時に発病したということ)。それを読んだ時、わたしは胸糞悪かったけれど、わたしが「障害年金もらえてます」とブログに書いていること自体、その年金をもらえていない人からしたら胸糞悪いことだろう。そして、さらには毎月死ぬような思いで生活するために非正規雇用で必死に働いて生活費を全額稼いでいる人からしてもわたしの文章だったりその10万円の人のそれは不快であるに違いない。ましてや、正規雇用で安定した仕事についている人からしてもいい気がしないことだろう。「タダ乗りしてるだけじゃないか」「働いてもいない人のために自分が納めた血税が使われていることに納得できない」と。
 このようにいろいろ制度の綻びというか納得できないと思うことはいろいろとあるし、正直出てくる。でも、そこから一歩進んでお金とのあり方を考えていこうとするなら、自分がどの程度あれば心地良くいられるかということだと思う。これはわたしのヨガの先生からの受け売りのようなもので、わたしはその言葉を聞いた時、すごくストンと腑に落ちたのだった。なぜなら、みんな一人ひとり違うからだ。ある人は年収が3億円くらいあるのが心地いい状態なのかもしれない。それ以下でもそれ以上でもなく3億円。と、また別のある人は500万円かもしれないし、はたまたある人は100万円ちょっとあればいいと言うかもしれない。だから、自分にとって心地いい状態を試行錯誤しながら探していくんだ。それができた時、必要のない無駄な欲望に振り回されなくなるし、あまりにも足りなすぎて苦しいとなってしまうこともないだろう。
 自分にとっての最適な状態。最も心地いい状態。それを探していくのだとさきに書いた。が、あれもこれもどれもと際限なく欲望をふくらませていくと、どれだけお金があっても足りなくなるのは言うまでもない(ヨガの先生は、わたしが欲望について質問した時に「欲望をなくせ」ではなくて「無駄な欲望をなくせ」ではないか、とも言っていた)。だから、わたしは最低限度プラス少し潤いがある程度でいいと思っているし、いいにしたいと決めているのだ。
 けれども、言うまでもなく人というのは隣の家の芝生は青いと思う生き物のようで、人と自分を比べては自分の置かれている状況を位置づけようとする。そう考えていくと、もしもこの地球上に自分一人しかいなかったら「もっとお金があったら」とか「もっと頭が良かったら」「もっと格好良かったら(美人だったら)」などとは悩まないだろう。だって自分しかいないのだから比べる相手がそもそもいないわけで、劣等感も優越感も持ちようがない。そこに比べる対象となる他の人が現れでもしない限り、そういった悩みとは無縁なのだ。
 人と比べること。それは人を切磋琢磨させてさらなる向上へと導いてくれるものではある。けれど、本来はただ自分がいて、その自分が今の状態であって、今こうしていて、こうして生きている。ただそれだけのことだと思う。それに価値だの何だのを持ち出してきて、自分は誰それよりも頭がいいとか、誰それよりはお金を持っているとか、必要のない飾りをジャラジャラ付ける。そして、その観念上の遊戯のようなものに喜んだり、落ちこんだりしている。それがわたしを含めた凡人の様ではないかと思うのだ。そう、本来はただそれがあるだけなのだ。そこには優劣も貴賤も価値の高低もない。な~んて、まるで聖者か何かのように偉そうに悟っているふりをしているわたしではあるものの、どうしてもやっぱり人のことが気になってしまう。「修行が足りんのぅ」という言葉その通りだ。いやはや、思い通りにはいかないものですな。
 ところで、最近わたしは本を買うのを原則やめることに決めた。これを決めるまでにはいろいろと考えたものだけれど、図書館で借りればいいじゃんと思えたのだ。やせ我慢と言えばやせ我慢なのかもしれない。でも、本代を捻出させるために働くまでしたいかと言えばそういうわけでもない。たしかに不便だとは思う。けれども、まぁ、お湯を沸かす時に、電気ポットをやめてガス火で沸かそうと決めたようなものだと思うようにしたい。時機に慣れることだろう。そして、あの本をたくさん買っていた頃のことを無駄遣いしていたなぁと懐かしく思うようになるのかもしれない。これで月に数千円は浮く。そして、そのお金を自分のやりたいことへと注ぎ込んでいく予定だったりする。メリハリが付きましていいじゃござんすか、という感じだ。
 わたしの目指す方向性はまさに「少ないお金で最大限の贅沢を」で「たくさんのお金で最大限の贅沢を」ではない。少しの収入でありながらもそれ以上に豊かな暮らしをしていくのが理想だ。そのためにはわたしの場合、習い事のヨガにはお金を惜しまないものの、生活費全般は節約する。節約するのだけれどお料理をできる限りまめに作るようにしておいしい食事をして生活の質を上げる(食材にお金をあまりかけないながらも)。本を図書館から借りてきて読書をする。森の公園へも行ける時には出掛けていき、おいしい空気を吸ってリフレッシュする。母との二人暮らしをささやかながらも楽しむ。で、書ける時にはブログの記事をこうして執筆する。
 何だ、これはこれでキラキラした生活じゃないか。お金はかからないけれども中身のある素敵な暮らしだ。周りの人の様子を気にして踊らされることがなければそれなりに楽しんでやっていけそうだ。世間で言うところのFIREとかゆるFIREという、仕事をしなかったり、少しだけ仕事をして悠々自適な生活を送るということがもう既にわたしはできているじゃないですか。あとはただ周りを気にしないことだけ。朝、ヨガをやるために街へ出掛けた帰りにカフェで優雅に朝食を摂っている人とか、そこそこ値段がする焼きたてパンとか買っている人とかを見ても気にしないようにするだけだ。でも、その軽食とか焼きたてパン、美味しそうなんだよなぁ。って、いかんいかん。そういったものよりもわたしの作るお料理の方が何倍も美味しいんだからっ!! と少し強がったけれど、まぁこれは事実なんで(事実わたしの作るお料理はなかなかのもんなんですよ)。オイコラ、生意気だな。てへ。
 お金がないならないなりの楽しみ方、暮らし方をしていけばいい。お寿司のマグロの中トロだぁ、ウニだぁ、イクラだぁ、高級フレンチのフルコースだぁ、トリフュだぁ何だというものとはこれからも縁がないことだろう。でも、いい。わたしはわたしなりに安い贅沢をしていきますから。安い贅沢というこの究極的な矛盾。いや、安い贅沢と言うよりは、お金をかけないけれど豊かな暮らしと言った方がいいかもしれない。
 では今日はこのへんで。ではでは、またね。

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