メリークリスマス!

いろいろエッセイ
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 今年の4月の末あたりから教会へと行かなくなって早8ヶ月あまり。気が付けば今日はクリスマスで聖なる日を迎えるという次第。何だかすごく不思議な感じがして仕方がない。
 クリスマスと言えば、もう言うまでもなく教会のクリスマス礼拝とイヴ礼拝には必ず出席して祝ってきた。それが行かなくなって、何年ぶりだろう。教会へ行かないクリスマスって。だから、今までとは違う。流れている空気も違う、そんなクリスマスになりそうな予感がする(現在午前3時半)。
 実は昨日、教会の牧師からメールが来ていた。教会生活をお休みしたいとのメールをわたしが牧師へ送ってそれに対して簡単な返事をもらってから、牧師からは特にこれと言って連絡も何もなく8ヶ月あまりの時間が流れていた。そのメールをわたしのメールボックスで発見した瞬間、一瞬だけれどこみ上げる何かがあった。覚えててくれたんだ、と思った。でも、そのまた次の瞬間には正気に戻った感じで、ほだされそうになりながらもまたぐっと揺れる自分自身を元の位置へと戻した。言うまでもなくわたしも人の子で、こういったものには滅法弱いのだ。ちょっと気遣ってもらえただけですぐに有頂天に嬉しくなってしまって、今までのこととか全部水に流してしまうようなところが少なからずある。まぁ、お人好しというか、単純で素直というか。それにわたし自身、自己肯定感が割合低めの人間だから、何かそういうちょっとしたメールをもらうだけで、わたしのためにここまでしてくれたのだと嬉しくなってしまうというのもあるのだとも思う。すぐ嬉しくなっちゃう。
 けれど、それをぐっと戻せたのは、実際過去にいろいろあったからで、このブログにも書いている通り、牧師の説教を聞くと心がかき乱されて平安から遠のくということや牧師のいろいろな面での対応に不満やら何やらがあったからだ。それらをザーっと水に流しましょう。赦してなかったことにしましょう。帳消しにしましょう、なんて、そんなことができるのが本当の本物のキリスト教徒でありクリスチャンではないかと思ったりもする。わたしはイエスさまが言われる7の70倍どころか数回でさえも赦せません。と言いつつも牧師と壮絶な激しいやり取りをしてパワハラのようなことを受けたとかそういうわけではないから赦すとか赦さないとか、そういう話まではいかないのかもしれない。ただ、わたし自身、教会に対して、そして牧師に対して不満があったことは事実で、その結果、教会へと行かないという選択を取ることとなったのだ。というのが大体理由としては4割くらいだろうか。あとの6割くらいはわたしが変わってきたということで、キリスト教とは異質な異教のものであるヨガやインド哲学にひかれるようになったこと。これが大きい。
 わたしが考える神様っていうのは、ものすごく大きいもので、教会生活を送っているかどうかとか、そんな小さなことにはこだわられない存在なんだ。「お前は教会へと行っていないからダメでクズだ。お前なんか地獄行きだ」なんていうようなのはわたしにとっての神様ではない。もちろん神様はわたしが教会へとつながって教会生活を送ることを望んでおられるのかもしれない、とは実際思う。でも、そのことにどこまでもこだわってそうしなければ滅ぼすとか見放す、なんていうお方ではないと思っている。
 インド哲学にふれるようになって神様という存在への考え方が若干変わってきたのは事実で、何というか雲の上におじいさんのような長いお髭を生やした存在がいるとか、そういうのではなくて、何というか意識とかエネルギーとか、言葉ではうまく言い表せないのだけれど、高次の存在なのだと思うようになってきた。あまねくすべての存在の中に入っておられて、そして生きておられる、ちょっとキリスト教的な神様観からは逸れているかもしれないけれど、そんないわば汎神論的な神様を考えている。だから、わたしやそしてみんな、万物の中に神様は宿っておられて(宿るというのもまた微妙に違うような気もするけれど)とにかくすべてが神聖な存在であると言ったらいいだろうか。そんな存在を感じて考えているわけなんだ。
 話を最初に戻すと、その教会の牧師からのメールのタイトルというか件名は「メリークリスマス!」だった。メリークリスマス。世界中で何十億もの人たちがこのクリスマスを祝っている。もちろん、いろいろな人がいるだろうから、「クリスマスなんてなくなってしまえばいい」とか思っている人も中にはいるだろうとは思う。でも、多くの人がこの日を本当に祝福して静かに迎える。教会へ行っている人も、そうではない人も、キリスト教徒も、そうではないノンクリスチャンも。クリスマスを厳粛に受け止めている敬虔な人もいれば、ただ商業的なものとして受け止めて、クリスマスっていうのはローストチキンを食べてケーキを食べるだけの日と思っている人ももちろんいる。その多様な、いろいろな人がいる中で、どれが良くてどれがダメで、なんていうのは神様のそれはそれは大きな御手の中では些細なことなのかもしれないと思ったりもする。キリスト教に悪態をつく人や神様なんていないんだ、と無神論的に逆らおうとする人たちでさえも神様は大きな懐で受け入れて迎え入れてくださる、はず。たしかに神様を侮辱したり無視したりするのは良くないけれど、それすらも包み込んでくださっているのが神様だと思うんだ。
 と言いながらも神様というのは壮大なフィクションなんだ、すべて虚構であり人類史におけるそれはそれは大きな嘘なんだという考えも存在することは十分承知してはいる。もしかしたらだけれど、お猿さんたちがただ神様というものを拵えてそれはそれは有り難そうにありもしない、いもしないものを拝んでいるだけだったというのが事の真実というか、本当のところだったという可能性もないことではない。でも、それだったらそれでいい。少なくともそれが虚構のフィクションでしかなくて欺かれているだけだったとしても、それは人を、それも多くの人たちを幸せにしてくれた壮大なフィクションであり嘘だったのだから別にいいじゃないかと思うし、思いたい。
 でも、わたしが最近ヨガを熱心にやるようになって感じることは、少なくとも不思議な力というかパワーのようなものは存在するのではないか、ということで、日に日に日々、わたし自身に何か神聖な力が働いているのをひしひしと実感していることだったりする。教会で礼拝を捧げている時に、チラッ、チラッと時折感じることができた不思議な聖性といったらいいのか、不思議な力をヨガをやっていると頻繁に感じるのだ。キリスト教からしたら異教的なものであるヨガだから違う力なのかもしれないけれど、それでも聖なる何か大きな力が働いている、このわたしに、そしてヨガ教室に通っている人たちに。
 クリスマス。今日は特別な日。あなたにとって良いクリスマスでありますように。ってクリスマスは明日で今日はイヴだったぁ。うっかり、うっかりフライング(笑)。



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