ケチっちゃダメよ

いろいろエッセイ
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 痛い。2日ぶりの記事で何を言い出すかと思われた方もいることだろう。そうなのだ。突然で、しかも私事ではあるけれど、舌が痛いのだ。
 たしか2日か、3日くらい前、舌に大きな血豆が出来たんだった。おそらく姿勢が悪いのか、体が歪んでしまっているのか、ともかく噛み合わせが悪いようで、時々気が付くと舌を噛んでしまっているようなのだ。だから、大きな血豆ができた。で、それをそのままでは落ち着かなくてつぶした。もちろん、その血豆の血が飛び出して多少の出血はした。このつぶしたのが医学的に良くないのかどうなのかは分からない。けれど、つぶした。そうするとどうなるか? そこに傷が出来たような状態になる。
 これが痛いんだわ。何もしないでおとなしく静かにしている時にはあまり痛まないんだけれど(それでも何もしていなくても舌が動くと痛い)、食事をする時といったらまぁ痛くて痛くて。舌っていうのは嚥下(えんげ)といって、口の中で噛んだ食物をのどへ送り込む働きもしている。だから、必ずベロがその口の中の食べ物をのどの奥へ押し込もうとする時、ほぼ確実にその舌にできている傷に当たるんだ。わたしの舌の傷は側面にあるから、大したことがないと思うかもしれないけれど、食事をする時にはしょっちゅう当たるから痛いんだ。
 その食べ物が当たったりする時の痛みというのは、まるで針でつつかれているかのようでそれはそれは痛い。あまりの痛さに声を上げてしまうこともしばしば。
 けれど、発想を変えることにした。痛いというのはバイキンのようなものではなくて、生きているということなんだ、と。それを教えてくれるもの。それが痛み。まぁ、そうは言っても舌にできた小さな傷に食べ物が当たって痛いのどうの、と言っているのはまだかわいい方であって、交通事故で大怪我をしたとか、がんの疼痛がひどくてモルヒネを打っているだとかいうことと比べたら大したことがないと言えば大したことはない。でもね、痛いんだ。痛いんだ。
 その痛みに向き合った時、何だか少し今までと違うような感じがした。発想を変えたからといっても痛いものは痛い。けれど、痛みに対する捉え方が変わったことによって、その痛みが嫌なものは嫌であるけれど、何だか愛おしく感じられてきたんだ。
 痛い。今、ここで痛いと感じている。それは今、生きていることのれっきとした証ではないのか。もしこの痛みを感じないとしたら、それは神経が麻痺しているということだし、そもそも死んでいたら何も感じることはおそらくない。痛いと感じることができるということ。それはすごく有り難いということ。でも、痛いのはやっぱり嫌だけどね。今もこの瞬間にも自然と舌が動いているのか、チクチク痛む。でも、これは生きているがゆえの痛み。
 とここまで大層偉そうなことを書いてきたけれど、何とこの痛みが舌の口内炎に貼るパッチでほぼ消えてしまうのだ。食事をする時にもそのパッチを貼ればほとんど痛まないし、じゃああえてなぜこの痛みを我慢するのか、というかしているのか? それはそのパッチの枚数に限りがあるから(笑)。ってオイだろ、それ。擁するにそのパッチを節約して使うために多少の痛みを我慢しているというわけでして。でもね、その丸いパッチなんだけど、すぐはがれるんだ。だから、毎食毎食、食事のたびにそれをはがれては付け、はがれては付けなんてやっていたらあっという間にそのパッチを使い切ってしまう。だから、不便ではありながら、そして痛みを感じながらも星は耐えるのです。ってオイだろ、そこは。要するに星がその口内炎パッチ代を節約しようと痛みに耐えているというわけだ。まさに、オイ!! で、そのパッチが高いかどうかと言うと20個で1500円くらい。ということは1個75円あまり。うーん、高いのか安いのかよく分からないものの、星は耐えるのです。その1個75円の口内炎パッチを使うのを惜しむので耐えるのです。何という美学でありましょう。
 というわけで偉そうなことを言いながらも、節約で倹約なだけだったという何だか今までのいいお話がぶち壊しな展開となりましたが、まぁ、そんなわけでして星は痛みに耐えるのです。1個75円の口内炎パッチの出費をケチるがゆえに。でもね、痛いっていうのは生きていることなんですから恵みなんですよ。な~んて、この期に及んで言っても後の祭り。

教訓:舌に血豆ができてつぶれたらケチらずに口内炎パッチを。パッチが1個75円もするからってケチっちゃダメよ。



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