チャレンジするかどうか悩みながら考えたことあれこれ

星のアシュタンガヨガ日記ヨガ
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 何かやりたいことがあるとする。そして、それに挑戦すれば新しい世界が開けそうだ。となれば、やるしかないでしょ。
 言ってしまえばこれだけのことに人は臆病になりひるんでしまう。急にそれにチャレンジすることが怖くなってしまうからだ。
 というか、どうして怖いのだろう? 人間というのはやはり安全を何よりも確保しようとする。新しい世界に飛び込むというのは、やはりそれ相応のリスクもあることはあって、何もしなければリスクはゼロ。だから、自分の快適な、俗に言われるコンフォートゾーンから出ようとはしない。まわりから見れば、そこまでやりたいのならやればいいのに、という状況だとしても。
 と、前置きのようなものが長くなったけれど、今、わたしはあることをやろうかどうしようか迷っている。やればきっと面白いだろう。でも、怖いんだ。
 怖い怖いなんて言わずにやってみろ。そして、やってみてそれから考えろ。誰かの言葉にそんな言葉があったかと思う。でも、怖い。
 わたしの人生を振り返ってみると、小さなチャレンジではあったけれど、チャレンジはそれなりにしてきた。が、20代前半での大学中退はわたしにとって忌まわしき記憶となっていて、何か新しい世界が見えてきた時に、その時の記憶がまるでトラウマか何かのように甦ってきて「やっぱり無理なんじゃないか」と思ってしまう。あれからもう20年近くは経っている。だから、もうわたしは昔のわたしなんかではなくて、大きく変わったし成長したんだ。だから、「大丈夫だ」と思いたい。でも、その失敗が脳裏をかすめて「やっぱりまた失敗するのではないか」と不安になってしまう。
 何かにチャレンジするからには成功しなければならない。そして、ある程度はそれをやることによって成果を出さなければならない。そんな考えがわたしを不自由にして縛り付ける。
 でも、考えてみれば、何でチャレンジしたら必ず成功しなければならないのだろう? どうして失敗してはいけないのだろう? 人生というものはそもそも失敗することが許されない場所なのだろうか? 何かにチャレンジして失敗する、という営みさえも許されないのか? そういう風に考えていくと、このチャレンジするからには成功しなければならない。失敗してはならない、というのは何も根拠がないことが分かる。というか、何かに挑戦してそれが成功するか、それとも失敗に終わるかなんて誰に分かるのだろうか。それをご存知なのは神様か超能力者、霊能者くらいで、神様でもなく、そうした能力を持つ人間でもない普通の人にはそんなこと分かるわけがない。
 チャレンジ。それも失敗すると全財産を失うとか自分が死ぬとか、そういうチャレンジであれば誰でも真剣に考えなければならないし、思いつきで「じゃあ、やろう」なんて言うことはないはずだ。そういう意味ではどんな失敗も死ぬことと比べたらかすり傷だという言葉は事の本質を見事に射抜いていて、たしかにそうかもなぁと思う。が、わたしの場合、そのかすり傷さえも負うことをおそれている。極力失敗して受けるダメージをゼロにしようとしている。だから、思い切った冒険や決断ができない。要するに、体が重い。フットワークが軽くなくて、何かやるにしても腰が重くて「どっこいしょ」みたいな感じ。
 そんなわたしがふとある言葉を思い出した。それは、いしかわゆきさんの『書く習慣』という本の中の言葉で「とりあえずはじめてみて、あとは走りながら考える」で、ウジウジ悩んでいるわたしの心に灯りがともったような、そんな変化が感じられた。
 たしかに言われてみれば、その通りで、やってみたいことがあるのなら今やった方がいい。始めるなら今、始めた方がいいということ。
 極端な話になるけれど、こんな人がいるとしよう。その人にはやりたいことがあるのだけれど、将来が不安だということで、今の生活をひたすら切り詰めて将来への貯蓄に回している。5年後にはいくら貯まる。10年後にはいくら貯まる。それからやりたいことをやるようにしよう。そんな風に思っていた。けれど、その5年後に重い病にかかり、余命3ヶ月と宣告されてしまう。そのやりたかったことというのは、体力が必要な山登りだったりサーフィンで、とてもではないけれどもう体力も落ちてしまった今ではできない。彼女はきっとわたしが言うまでもなく後悔することだろう。何で5年前のあのやりたいと思った時にやっておかなかったのだろう、と。
 また、こんな話もあるんじゃないかということで思いついた。ある人は好きな人がいた。その人とはぜひとも結婚したいと思っていた。けれど、その相手は貧乏なお金のない人で、その人と生涯を共にしていくとしたらきっと自分は大変な思いをすることになる。それよりは大して好きなわけでもないけれど、自分と結婚してほしいという高収入の人がいるのだから、その人と結婚した方がいいのではないか。そして、その打算に基づいた行動を取り、好きでも何でもない人とお金のために結婚した。それから数年後に風の便りで貧乏な自分が好きだった人が結婚したらしい、ということを知る。たしかに今、お金はある。将来も何も困ることはない。けれど、満たされない後悔する思いばかりがこみあげてくる。どうして自分はあの時、好きだったあの人と結婚しなかったのだろう。何で愛よりもお金の方を選んでしまったのだろう。そう思ってみたところでもうあの人と自分はお互いにそれぞれ家庭を持ってしまっている。となったらもう後悔しかない。
 今。そう、今やるということ。そこにこそ価値があるのではないか。もっと言ってしまえば、自分が1年後にも同じようにして生きているかどうかという保証は何もない。健康状態だって今のままかどうかと言えば、そんなことも分からない。すぐに重い病気になったり、障害を負ったり、最悪の場合死んでしまってもうこの世にはいないかもしれない。だから、今やりたいということはできるだけ早めにやっておかないともうできなくなってしまうかもしれないということだ。こう考えるとすごく今というものが尊いことが分かる。わたしは今、40歳だけれど、これから10年間頑張ってお金を貯めて、その貯めた分を使って好きなことをしようと思っても、その時には50歳になっているわけであって、同じ気力だったり健康状態でその50歳になった時にそれができるかどうかというのは分からないし、保証されてもいないのだ。「そうは言っても先立つ物はお金でしょう?」という言葉を否定するつもりはない。お金は大事だ。でも、お金以上に今、すなわち今、そのやりたいと思うことをやることに価値があるのではないか。だって、今やるのとまた未来のある時点でやるのとでは違うのだから。今の感性、今の感受性、そして何よりも健康状態だったり年齢的な体力的なもの。最悪、今はやれても未来にはできないのかもしれない。だから、やりたいことはできるうちにやっておいた方がいいんじゃないか。生きているうちに、それも元気でそれがまだできるうちにやっておいた方がいいんじゃないか。何かわたし、間違ったことを言っているだろうか? すごく自分でも正論を言っていると思うんだけれど。
 銀行にまとまったお金を預けるとその数年後に高い利子が加えられて返ってくる、というのは、つまり、そういうサービスがあるというのは未来がどうなっているかということが分からないからではないかと思う。可能性としては相当低いかもしれないけれど、そのお金を預けた人がその間に死んでしまうことだって100%ないとは断言できない。そのお金を使っていれば楽しい思いもできたのに、預けたばっかりに使うことができずにその間に亡くなってしまった。というか、こう考えるとお金って何のためにあるんだろう、って思えてくる。もしかしたらだけれど、お金というものは今を楽しく生きたり、今をより良く生きるためにあるのではないだろうか。そのためにあるものであって、何も死んだ後に畳の下からお金がざっくざっく出てくるためにあるわけではないと思う。
 こういうことを書きながらも、「備えあれば憂いなし」という言葉ももっともだとは思う。けれど、備えることしか考えなかったとしたら、あの世にはお金は持っていけないのだからこの世にただ残していくだけになる。それが幸せかどうか、と言えばそれをもらえる人は喜ぶだろうけれど、そのただ残して死んでいった人自身にしてみたら「それってどうなんだろうなぁ」とわたしには思えてしまう。
 とここまで読んでこられた方は、星が一体何について悩んでいるのだろう、と思われることだろう。正直に告白すれば、ヨガの資格であるRYT200の講習を受けようかどうかと迷っているわけではない。そうではなくて、もっとハードルが下がったことで、静岡にあるヨガ教室に行こうかどうか迷っているのだ。「何だ、そんなことか。それなら行けばいいじゃん」と何でもないことのように行動力のある人なら思うかもしれない。でも、小心者のわたしにとっては一大決心をしようかどうかと大いに迷っているのだ。たとえそれが小さい悩みのように見えたとしてもわたしはわたしで悩んでいるのだから小さくはないのだ。で、どうしようか。どうしたらいいのだろう、と思いながら何か今の現状を書くことによって突破口が見つかるかもしれない。そんな思いでここまで綴ってきたわけだ。
 で、結論としては出そうなのだけれどまだ出ていない。石橋をまだまだ叩き続けている、そんなわたしだったりする。新しいことに挑戦するのって、チャレンジするのって本当不安になるし怖い。怖い気持ちでいっぱいになる。でも、ここで一歩踏み出さなければ、新しい世界は広がらない。井の中の蛙はやはり井戸の外に出てみないことには広い広い世界があることが見えてこないのだ。
 もしかしたら、わたしは自分自身にこれはできない、とか、これは無理というような限界だったり枠のようなものをはめてしまっているのかもしれない。本当はもっと羽ばたけるのに、向上してどこまでも高まっていけるのに、それをそうした限界だったり枠で縛り付けている。ただ、それだけのことなのかもしれない(まぁ、それは自分への過大評価なだけなのかもしれないけれど)。
 チャレンジをするか、しないか。言ってしまえばただそれだけのこと。でも、その単なる二者択一のようにしか見えないこの葛藤にこそ深い深い意味があり、輝く価値がある。そう思いたい。ここまで語ってきたものの、結局やめたという結論を出すのかもしれない。でも、後悔のないようにしたい。あの時、どうしてやっておかなかったんだろ。やっておくべきだった、と。



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