そんなことやっている場合じゃない?

いろいろエッセイ
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 わたしの日常と言えば、大方、平和なのだと思う。ヨガをやる。瞑想する。読みたい本を読む。健康的な食事をする。そんな調子で平和な毎日を享受してきた。
 が、そんなわたしのまさに平和ボケしている所に、格闘技で言うところのアッパーカットのようなものがどこからか突然飛んできたのだ。とは言っても、別に実際、誰かから殴られたとか、そういう話ではなくて、ただ衝撃がもたらされたというだけの話なんだけれど、それにしても目が覚めたというか、何というか。
 きっかけは昨日図書館で借りた2冊の本。その本は、福島の原発の処理水についての本とトリチウムについての本で、1ヶ月ほど前に図書館で別の図書館から取り寄せてもらうことにしたものなんだ。その本がちょうど1ヶ月経った昨日、連絡があって、早速、図書館へ行き、本を受け取ったわたしなのであった。
 今から1ヶ月前と言えば、福島の原発の処理水を放出することを開始したかどうか、といった頃。その頃のわたしはいわば軽い気持ちで「知るのもいいかもな」と思ったのだった。そんなわけで、図書館でリクエストをして取り寄せてもらうことにしたのだ。が、2週間経っても、3週間経っても、図書館から連絡は来ない。それでもうキャンセルしようかどうかとか思っていたくらいだったんだ。でも、昨日連絡が来た。で、行ってきたというわけなのさ。
 本を30ページほど読んでみて、急に焦りというか、わたしはこんな生活をしていていいのだろうか、といった思いに駆られた。ヨガをやり、瞑想もして、健康的な食事をして、まさに心の平和を目指すような穏やか~な生活をしているわたし。けれど、そんな生活がある日、突然ぶち壊されて、「今日からは非難生活を送ってください」(原発が事故を起こしたとかで)とか、あるいは日本が戦争へと巻き込まれるなり、自分自身で突き進んでいくなりして、「さぁ、今日から戦争ですよ。お国のために生きてください。みんなで一致団結して敵国と戦いましょう」なんてなったら、さぁ~大変!! もうそうなったらわたしはヨガなんてやっていられないだろうし、心の平和を求めた生き方をしたいだの、体にいい物を食べたいだなどとは言っていられない。非常事態となり、それなりの対応だったり行動が要求されてくる。なんてことを処理水の本を読み始めた今、想像したりする。
 平和ってね、当たり前じゃないんだよね。そして、壊れる時にはとても呆気なく壊れて失われてしまう。それが平和だったり、何気ない日常なんだろうなって思う。わたしがこうしてヨガをやったり、瞑想したり、好きな本を読んだり、いろいろぐだぐだ書いていられたりするのも、すべては平和だから。平和だからこそ、普通の暮らしができるような状態だからこそ、享受できている恵みなのだ。
 今回のこのわたしにとっての衝撃は、神様がこの恵みについて考えなさいと方向転換をわたしに迫っているのかもしれないと思えなくもないほど、急に我が身が置かれている場所のようなものを思い知らされた。
 平和って実に呆気なく、まるで砂のお山のように崩れ去ってしまう。ないだろうけれど、もしもの話として、ある国が日本へ核を搭載した弾道ミサイルを打ち込んできたとして、それを日本の自衛隊のミサイル迎撃システムで打ち落とすことに失敗して、もし仮に東京が被害を受けて壊滅状態になったとしたら、さらにはわたしが暮らしている静岡へもそのミサイルが何発か飛んできたとしたら、もう東京や静岡は焼け野原となってしまう。一瞬にして広島や長崎の再来か、ミサイルの性能が明らかに向上していて、核もさらに強力なものとなっているかもしれないから、被害はおそらく甚大なものとなる。みんなの明るい未来が一瞬にして灰となってしまう。
 わたしが非暴力を実践するとかしないとかいったこと以前の問題として、わたしたちの運命は少数の権力者の手に握られていて、彼らが核のミサイルのボタンを押すかどうか、というただそのことにかかっている。あぁ、あっけない。そして、実に儚いなぁとも思う。さらには、わたしたち大衆って無力だなぁとも思う。わたしたちにできることって言ったら、選挙でしっかりと投票して戦争しそうな政治家を選ばないことくらいしかないような。あぁ、それにしても無力。
 どうか少なくともわたしが生きている間くらいは日本が戦争しないでいてくれたら、と思わずにはいられない(いや、日本がこれからも永久的に戦争しないことを望むべきだな。失敬、失敬)。そして、さらには原発の事故なんかも起こらないでほしい。
 などとある意味、自己中心的なことを願うだけの自分勝手なわたしだと思えなくもないけれど、まずは自分のことじゃないですか?(ってそこまであからさまに言ってしまっていいのか……)
 このように考えると、もしかしたらわたしはヨガをやっている場合ではないのかもしれない。声を上げて闘うべきなのかもしれない。って何と? 誰と? そりゃあ権力だよ、なんていうのは自明なのかどうかは別としても、闘ったところで勝算はあるのか? 自分が何かを失うばかりで、かえって面倒くさいことに巻き込まれて嫌な思いをしたり、割を食うだけなんじゃないか? なんかなぁ~、こういうことを言うと真面目に社会を変えようと運動している人に怒られるんだろうけれど、何だか大変そうなことばっかりでそれに引き付けられないのです。魅力を感じないのです。ということは、今までと同じようにただ自分のことだけ考えて、気ままに暮らすわけか? と結局、どうしたもんかねぇとなる星なのだ。
 ヨガをやっている場合じゃない? こうしている場合じゃない? じゃあ、どうしている場合だって言うんだ? なんて一人で焦ってカリカリしてもおそらくこの社会は、世の中はそれをなしている人たちが変えた方がいいと思わない限り変わることはない。だとしたら、この無力でちっぽけでコネもツテも権力もないわたしにできることは何かと言えば、ほとんどこれといって何もないのかもしれない。じゃあ、無力だから何もいたしません、でいいのかって言ったらたとえ微力でほぼ無力のようなものであっても、たとえばこのしがないブログでそういったことを書き続けるとか、そんな感じでもいいのかもしれないと思ったりする。
 どちらにしろ、わたしは無力なのだ。だったら無力な人間は無力なりにほぼ無力なことながらも微力ではある、そんなことをなせばいいのではないか。何か学歴だったり肩書きだったりを得て、力を手に入れて、その力をもとにして発言やら行動をしたりする、というのが王道であることは事実だ。一番手っ取り早くて、一番効果的なやり方というか。でも、わたしにそこまでやろうとかいうモチベーションはない。わたしはわたしでやりたいことがある。だから、そのやりたいことをやっていたいんだ。となると、それをやっている場合じゃない、という声がまたどこからか聞こえてくる。でも、いいじゃないの。日本に1億2600万人もいる人間のうちの一人が自由に気ままに生きたいって言っているだけなんだからさ。好きにさせておくれよ。まぁ、このいわゆる無名のブログでその問題だったり何だったりを啓発していくからさ(無名で人気があまりにもない底辺ブログ過ぎて啓発にすらならない? 汗)。
 ということで、ヨガをやっている場合ではないかもしれない。が、かと言って何かをやったところで世の中が変わっていくとも思えない。その間に挟まれて、結局自分にできそうな小さなささやかなことをやっていくのさ、でいいんじゃないの、みたいなぐだぐだした結論になってしまいました。う~ん、本当この文章、無駄なおしゃべりだったかも。
 以前、このブログ上で、わたしに働け、働けとコメントして批判してきたYの言葉(彼が言うにはわたしのブログは「無駄なおしゃべり」だとのこと)がトラウマになっているような。でも、どんなに無駄なものであっても誰かにとっては無駄じゃないんだよって叫びたい。ってかこれは少々蛇足でした。要らん付け足し。と言いつつも、このぐだぐだおしゃべりが誰かの役に立っていたらいいなと思う星なのでした。それが無駄かどうか決めるのはそれを受け取ったその人なんですからね。



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