若く見られようとするこだわりを捨てたいと思う

いろいろエッセイ
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 肩の荷が下りたような、そんな感じがした。って何の話かと言うと、わたしが執着していたものについてだ。
 わたしの煩悩。わたしが執着しているものはたくさんある。その中でも最たるものが健康だったり若さだったりする。まぁ、いわば自分の魅力みたいなもの。
 もしもこれらがなくなって、失われてしまったらやっていけないんじゃないか、というような気がする。今はまだいい。40歳でまだまだ若いのだから。でも、これが70、80歳と年齢が上がっていくに従ってわたしは老化していき体はさびついていく。体のあちこちに問題が生じ始めて、そしてそれが限界まで行った先に死がある。果たしてそうなった時に自分自身を受け入れることができるのだろうか。もうすでに今の段階で不安だ。きっと受け入れられなくて「こんなにもなって。だから歳を取るのは嫌なんだよ」とひねくれているのかもしれない。
 そうした若さだったり健康だったりを手放してあるがままにあるのだとしたら、わたしはどう変わるのだろうか。きっと自分が歳を重ねていくこともいいとか悪いとかジャッジしないで受け入れることができるようになっていくに違いない。
 今日、ある本を読んでいたら(また最後まで読んだらご紹介しますね)お坊さんなんだけれど、物事に対していいとか悪いとかジャッジすることをしていない姿勢が言葉から溢れていて印象的だった。人間というものはとかくいいとか悪いとか判断してそこにズバっと切れ目を入れて裁く。歳を取るのはいいことだ。あるいは悪いことだ。煩悩があるのはいいことだ。いや、悪い。そうしたことに限らず、わたしたちの生活というものはジャッジの連続で、ジャッジがあるがゆえに成り立っていると言っても言い過ぎではない。でも、そのお坊さん、すごく自由なんだ。何というか物事にとらわれていないというか。法律を破っていけないことをするのは悪いことだとは常識的には理解している。でも、それすらも絶対的なものではないということを分かっているような空気を漂わせている(ようにわたしには感じられた)。
 要するにこの世界は単なる現象であって、無常であって儚くて本質は空であって実質は何も存在していない。そんなゴ~とでもいうような風が渦巻いているようなそんな神懸かった世界認識がそこにはある。それはわたしがこのブログでも紹介した波の思想で、すべては波であって、寄せては返し、生じては消えるそんな運動でしかない。生まれて、生き、そして死んでいく。そして、また元の宇宙へと帰り、また誕生する。それを延々と延々と果てることもなく続けているのがわたしたちなのだとインド哲学だったり仏教だったりの輪廻転生の思想は語る。
 だからこの背筋が凍り付くような世界観のもとでは、社会的に成功して偉くなるとか、体を鍛えて美しくなるとか、勉強をたくさんして偉く賢くなる、などといったことはあまり意味をなさないんだ。というよりも、いずれは滅んでいくのだし、そんな不確かなものを確かものとして生きていくのは得策ではないと考えるのだ。
 そのお坊さんが本の中で語っている話を読んでいたら、アンチエイジングも自己実現も美容も社会的成功も名誉も社会的な地位も大したことではないように思えてきた。それよりも、お坊さんが言うには彼らの生き方というのはとにかく今に集中する生き方らしいのだ。未来、過去。たしかにそれらを考えないというのは難しいのだけれど、それでもそうしたことに思考を持って行かれるのではなくて、今に集中する。だから、今を生きる生き方をするわけだ。それで、長生きしようとか、何か目標を大きく立ててそれを達成しようとか、より健康になろうとかそういうことは考えない。ただ面白いことにそうしたことを手放してこだわらなくなると逆に長生きするらしい(って結局わたしが長生きすることを狙うことをあきらめきれていないようにも見えてしまうけれど)。こだわりをなくし、執着をなくし、なるようになってくれればいい。そう手放すとかえって手放したものが結果的に手に入るというこの面白い逆説。お坊さんは長生きらしくて、90、100歳まで生きる人も珍しくないと言う。でも、ここで長生きするためにはお坊さん的、要するに仏教的ライフスタイルがいいのだ、となってしまうとまた本来のあり方ではなくなってしまうから難しいところではある。とまぁ、ここで言いたいのは追い求めるとかえって遠ざかり、それを手放して追うのをやめるとそれが近付いてきて結果的に手に入っているということ。いやはや、皮肉なものですね、なんてね。ま、これはいいんだけれど。
 だから、わたしにとっての一大転換。ってまだ怖い気はするんだけどね。だって今までやっていたことを手放すわけだから。でもね、それを手放すことによって寿命が縮むのであれば縮んだでいいんじゃないかっていう気持ちになってきたんだ。それよりも、今与えられた一日。そして、今日という日の一瞬、一瞬を心を込めて生きることができればそれでいいようなそんな感じがしているんだ。
 今に意識を集中させる。それはヨガや瞑想を通してわたし自身体験してきたことで、いかに毎日今を生きていないかってことを痛感させられる。
 というか、今日一日、無事に楽しく生きることができたらそれでいいじゃないか、という心境に変わりつつある(ってすぐ影響を受けるわたしですな)。明日がなくても、明日死ぬのだとしても今日がいい日だったからもうこれでいい。思い残すことはない。なんて言いながらそうなったらなったでわめき散らすだけの小さい人間なのかもしれないけれど、まぁ、そんな大きな心のあり方でいたいんだ。つまり、「明日死んでもいい」の精神。くよくよしないし、思い悩まない。ただ、今をしっかりと生きている。そんなあり方。不安も後悔もすべては未来と過去に思考が飛んでしまっているのが原因なんだから、今に戻す。今を生きている人に共通することは思い悩まないということ。いいなぁ、そういうあり方。わたしもそうなりたい。
 そのお坊さんの言葉に救われたわたし。いいこと言うなぁ、本当。ありのまま、あるがままで行きたい。そして、ナチュラルに自然に逆らわずに生きていきポックリ死にたい。以上。
 ヨガを通して仏教にも接近しつつあるわたし。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり(『平家物語』冒頭)、だな。

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