ぐだぐだ不調日記未満の不調かい

ぐだぐだ不調日記
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 疲れているのだろうか。ともかく、生の喜びが感じられない。生きているのは素晴らしい。それは分かっている。が、どうも実感として感じられない。疲れている時ってあなたもこんな感じですか?
 今日は日曜日だから教会で礼拝。式を進めていって、牧師の説教を聞く。けれども、その話の中でネガティブな部分ばかりが気になってしまい、牧師の語る慰めの部分が全然耳に入ってこない。まぁ、ネガティブな部分が多いというのは事実なのだろう。でも、そればかりが大きくまるで拡大でもしたかのように、大きく大きく感じられる。明らかに過剰に反応している。そして、そういったネガティブな言葉がわたしに疲れと苛立ちを感じさせる。牧師の説教そのものに問題があるのか。それともわたしが疲れていて敏感になっているだけなのか。どちらなのかはっきりさせたいということではなくて、わたしがこうだったという話をしているだけなのでどうかお気になさらずに。
 調子がいい時というのは、生きていることって何て素晴らしいのだろうって思う。目は輝き、心は躍り、好奇心、ワクワクする気持ちは全開になっていて、とても楽しいし心地いい。わたしはその調子がいい時と悪い時であまりにも世界の見え方が違うことに驚きを隠せない。
 もうこんな記事を書いていないで寝た方がいいのだろうか。でも、もう少し。書けるだけ書きますから。
 頭は冴えている。実にクリアー。冴えていると思う。でも、背中に重い鉛を背負っているかのようなそんな感じで、とにかくけだるい。
 うむ。わたしはこの記事で何を書きたいのだろうか。書こうと思っていたのだろうか。ただ、グダグダと自分が今思っていることを書き散らしたかっただけ。でも、ぐだぐだ不調日記ほどの不調ではなくて、まだ余力はある。けれど、いっぱいいっぱい。
 わたしの方向性、これでいいのだろうか。自分の好きなこと、やりたいことに自分の時間を費やす日々。イエスさまがわたしたちにこうせよと命じられているような仕える生き方ではない。でも、わたしは人に仕えるのが好きじゃないんだな。時間は自分のために使いたい。こういうことを言うと「あなたはまだ子どもだね。全然成熟していないですね」と言われてしまうだろうと思う。まるで小さな子どもがそのまま大きくなって40くらいにまでなってしまったような、と表現するのが一番的確だろうか。今はもう亡くなっているクリスチャンの医師の日野原先生だったら、人のために時間を使いなさい。それが天国へ行けるかどうかの条件です、と言うだろうと思う。自分のために時間を使うのではなくて、人のために使う。突き放して言うならこうとでも言わない限り、日野原先生は納得できなかったのだろうとも言えそうだ。何て、言える資格はわたしにはない。何を偉そうに言っているんだ、わたし。口を慎めとはこういうのを言うんだよね。人のために時間を使う。それも対価を得ずにとにかく人のために自分の時間を差し出す。それは人のために自分の命を削る生き方。何の見返りも求めずにただそれがすべきことだと思うから。
 わたしは人のために時間を使いたいとは思えない。と言いながらもそこまで徹底しているかと言えば、そこまでの利己主義者でもない。でも、方向性としては自分のやりたいことに多くの時間を使いたい。何てワガママなわたし。でもこういう人がいてもいいんじゃないかって思う。いろんな人がいるのがこの世の中だからね。
 わたしはもしかしたらこの一週間くらいで変わってきたのかもしれない。ある意味、利己的な感じになってきていて、ドライに物事をスパスパ切っていくようになったのかもしれない。でも、変わっていくのが人間。人間は川の流れみたいなもので、変わっていかない人間というのはいないんだ。みんな程度の差こそあれ変わっていくし、それが自然の姿。
 若干? いや、かなり? 利己的でドライになってきましたわたくし。っておそらくこういうことを書くのは疲れていて余裕がなくなってきているからというのもあるだろう。余裕がなくなってきている。そして、自分は満点だから満たされていると前の記事に書きながら、そうは思えていないわたしがいる。
 平安。平和。どうやったら手に入れることができるんだろうね。わたしにはやるべきことが山のようにあって、とにかくそれらをこなしていくだけで一日が終わってしまう。
 オイオイ。深呼吸。しんこきゅ~。星さん、深呼吸ぅ。只今、呼吸が短く早くなっておりました。そんなに急いでどっこいっくの~? そんなに急いで何がやりたいの? 急いだところでどうなるの? それをやることって本当に必要? それって本当にやりたいことなの? やりたいことに追い立てられているわたしに「あはは。のんびりしなよぉ。その方がいいよぉ。えへへ」と声をかけてくるもう一人のわたしがいる。「公園へ行って深呼吸しなよぉ。森へ行ってゆっくりしてきなよぉ。急いでもいいことないよぉ。だよぉ」。「そんなんではいつまで経っても目標に到達できないだろ。わたしには時間がないんだ。無駄に長々と遊んでいる時間はないんだ」「無駄が大切だと思う。いつもカリカリやってたらもたないでしょぉ?」
 はっとする。もしもわたしが設定した目標をすべてかなえたらどうなるのだろう? おそらくその時にはすごい人にはなっていて、周りの人やわたしのことを知った人が「すごいですね」と尊敬してくれることだろう。でも、その一目置かれるとか尊敬を得るためとかそんなことのためにやっているのだとしたらバカらしいじゃないか。そうじゃない。そうじゃなくて、わたしがやりたいからそれをやるんだ。やっていたんだ。それを忘れていた。なぜ、どうしてそのことをやるのかっていう初心の志とも言えるものを忘れていた。
 やりたい。それがやりたい。やりたいんだ。それがやりたくて仕方がないんだ。だからやるんだ。そうした気持ちを置き去りにして、やればものになるから。やった方がいいから。やれば目標に近付くからとそのことに取り組む。そして、やりたいという純粋な気持ちなしでやってしまう。その結果、無理をして本当にこれをやりたかったのだろうか、となる。
 だからおそらくわたしは無理をしてやってしまっているのだろう。今、一番必要なことは何か? それはやりたいという気持ちが心からわき出てくるまでしばらくお休みすること。それがいいんじゃないかと思う。
 疲れた。休みたい。仕事にも行かずに、学校にも行っていない。しかし、オーバーワーク気味。休んでまた気力をチャージしてやっていきましょう。休め。大地よ、休め。って休耕期間でも作るみたいだけれど、またやる気が出てくるまでお休み。と言いながらも一晩長めに寝たらもうそれで回復しちゃうかもしれないけどね。気を付けぃ、ばっかりだったので休め。四六時中肩肘張ってたらやっぱり疲れちゃうよね。んだんだ(そうだそうだ)。

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