無邪気に喜べることは幸せなこと

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 今日、教会で集会があった。この集会はみんなで自由に語り合う、いわばフリートークをする集会で、わたしは珍しく食べ物を持って行った。何を持って行ったかと言うと、デーツ。デーツとはなつめやしの実で、乾燥させたドライデーツを差し入れとばかりに持って行ったのだ。
 そうしたらその集会に参加されていたある方が、わたしが持ってきたのがデーツだと知るやいなや、「わたし、デーツ好きなんです!!」とそれはそれは無邪気にテンションを高くして喜んでくださったんだ。
 わたしはそのリアクションを見て、すごく嬉しい気分になった。自分のやったことでここまで喜んでもらえている。それもここまでテンションを上げて、素直にそして無邪気に天真爛漫に喜んでくださっている。
 この出来事を通して思ったこと。それはデーツに限らず、いろいろな物事を無邪気にまるで子どものように喜ぶことができるかどうか。そのことに人生の幸福感とか充実感とか、いわば自分がこの人生を幸せだと思えるかどうかがかかっている。このシンプルなこと。喜べるか、それとも喜べないか。嬉しいと思えるか、ブスっとしているか。
 20代前半までのわたしはどんなことがあっても喜ばなかった。いや、嬉しいことはあったのだけれど、それでも喜んではいけないと思っていた。そんな調子で浮かれていてはいけない。常に上を目指して気を引き締めていなければならない。無邪気に喜ぶなんてまるでお子さまだ。自分はガキじゃない。そんな子どもじみたことで喜ぶなんて安っぽい。そんな風に考えていた。
 そうなると日常の喜びとか幸せな感じとか、いわばキラキラとした日々の輝きがなくなってしまうのは言うまでもない。毎日、必死でどんなに嬉しいこととかあっても苦虫を噛み潰した顔をしていて、「どうせ~だろ」が口癖。幸せ? それは今ではなくて遠い彼方にある。だから、それを追い求めているのさ。
 でも、40代を目前にしたわたしは思う。それではいつまで経っても幸せになれないんじゃないか、と。あるのは、確実にあるのは今この瞬間だけ。今この瞬間が訪れ続けてそれらが未来となっていく。だから、今をおろそかにする者、今を無邪気に喜べない者には永久に幸福はやってこない。そのことに気付けたのだ。
 だから、わたしが持ってきたデーツを素直にはしゃいで子どものように喜ぶことができたその方はとても幸せな方なのだと思う。ちょっとしたこと、日常のささいなことに喜ぶことができるというのはものすごい能力なのだ。人生を大きく左右する最も大切な能力だと言ってもいい。どんなにその人が優秀な人で頭が良くて冴えていたとしても、日々の当たり前の出来事とか小さなことを喜べない。それはすごく悲しいことだと思う。そして、不幸なことだとも思う。反対に、頭が悪くて冴えていなくてしょうもないことばっかり言っている、けれど毎日のささやかなことに幸せを感じることができる人はとても幸せなのではないかと思う。能力とか、生産性ではない。それが幸福な人生を送れるかどうかを決めるわけではない。そうではなくて、喜べるかどうか。嬉しい気持ちになれるかどうか。それ次第なのだ。
 そうなってくれば自然と人や物やさらには神様などにも無邪気に「ありがとう」と感謝できる。そして、「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」とまるで感謝の洪水がその人からなみなみとあふれ出てくる。素直にひねくれずに喜べるということ。小さなことや当たり前の日常に喜びを見出だせるかどうか。わたしは感謝の気持ちを抱きながら、感謝の思いにに包まれながら生涯を終えたい。
 喜べること。これ以上の神様からの賜物はない。喜んで、喜んで、喜んで。まわりからは喜びすぎだよ、と言われながらもそれでも喜ぶ。人生を喜びつつ、この平凡な毎日を謳歌していけたらと思う。
 おっと30分。ではでは、またね。

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