アドバイスしたくなったら

いろいろエッセイ吃音エッセイ
この記事は約7分で読めます。

 今日、悲しいというか残念なことがあった。あるお世話になっている方にわたしが吃音(きつおん)であることを伝えたんだ。きっとその優しい方のことだから何も余計なことなんか言わずに、ただ「そうなんですね」と言ってくれるものとばかり思っていた。しかし、この現実というものは時に冷酷でその方はわたしの予想に反して、どもらないようにするためのアドバイスをわたしにし始めて、最後には「気にしないことですよ」とさも大したことではないかのように言ったんだ。
 何だかとても残念だった。アドバイスが始まってから最後の言葉を聞くまでの間、何事もないかのように平静を装っていたのだけれど、それにしても堪えた。それはまるでわたしの吃音が「あなたのは大した問題じゃないよ」と軽くあしらわれているかのようだった。でも、自然と怒りはわいてこなかった。それよりも悲しくて、物悲しくて、「あぁ、この人は受け止めてくれなかったな」という無理解に悲壮感さえこみあげてくる次第だったのだ。
 でも、わたしはその方を責めようとは思えない。なぜなら、一般の人の理解というのはその程度のものでしかないと察するからだ。特に吃音というのはなかなか共感するのが難しい。わたしのように時々どもる程度の重度ではない吃音というのは、滑らかに話せている時の方が多くて、言ってみれば少しばかり言葉に詰まったり、間があいてしまったりする程度だから分かりにくいのだ。時々言葉につまってしまう。その程度、と思われても仕方がないところがある。
 でも、本人はどもる時というのは、どもってしまう時というのは、かなり必死なのだ。次の言葉を言わなければ、言わなければ、ともう言いたい言葉は頭の中にしっかりと浮かんでいるのに、それにのどや口がついていかない。のどはガチガチに固まっていて、次の声が出ない。そして、絞り出すようにその言葉を、声を出そうと試みる。
 もちろん、のどや口などに器質的な障害があって声自体出せないとか、声自体がかすれてしまって発声ができないとか、そういう方々と比べたら吃音なんて障害だなどと呼べるものではないのかもしれない。より重度の、もっと困っている人たちと比べたら大した問題ではなくて、ただ本人が自意識過剰なだけで気にしすぎているだけ。ただそれだけのことなのに、言語障害だなどと大袈裟なことを言っている。気にしすぎなの。おそらく一般的にはそう思われてしまっているのだろう。
 でも、本人はそのことを真剣に悩んでいる(幸いなことに今は悩んでいないけれど)。少なくともわたしの場合は真剣に悩んできた。自分のどもる姿が嫌で嫌でそれを理由に過去に自殺未遂までした。その方に吃音を理由に死のうとしたことがあるんですよ、なんて言ったら(言わなかったけど)きっと驚くことだろう。まさかそこまで悩みが深いだなんて思わなかった。わたしには大した問題のように見えなかったけれど、悩んでこられたのですね、と言うことだろうと思う。
 言葉が出ない。出にくい。ただそれだけのことのように思えることで人は思い悩んで死ぬことまで考えてしまうことがある。だから、美容整形とかする人の気持ちをわたしは賛成はできないものの、きっとこういう気持ちなんだろうなぁと想像できる。シミ、シワ、くすみ、ホクロなどなど。それ自体、大したことではないのかもしれない。それがあったところで死ぬわけではないし、人は思っている以上に他人の顔などにはこだわっていないからだ。でも、本人はそれを気にしている。悩んでいる。その一つのシミならシミがまるで世界の中で一番重い問題であるかのように悩んでいる。それを、その悩んでいる、少なくとも本人にとっては軽くない問題を「気にしないことですよ」なんて言ってしまっていいのか。その人はそんなことを言われたらきっと傷つくことだろうと思う。もちろん、末期ガンの人とか、今にも死にそうな人なんかが同じ台詞を言う分には問題はないのかもしれない。でも、何らシミやシワのない人がその言葉を軽々しく言ってしまうのは軽率ではないだろうか。でも、もっと言うなら末期ガンおよび死にそうな人であったとしてもより優しい態度を取ろうと思うのであれば、この言葉は言わない方がいいだろうとわたしは思う。「大変なんですね」と苦労を汲み取る姿勢が必要だと思うのだ。
 みんな重さは違うけれど重荷を背負っている。誰かから見てその人が背負っているものが軽そうに見えても、「軽そうですね。大したことなんかないですね」とは言わない方がいい。なぜなら、背負っている人の体力とか精神状態は一人ひとり違っていて、軽そうなものしか負っていないように見えても、本人には決して軽くはなかったり、その軽そうに見えてしまう荷を必死の思いで何とか負っているということが往々にしてあるからだ。同じ10キロであっても、ある人には朝飯前の重さでしかない。しかし、ある人には(その人は腕を怪我していて)それがとてつもない重さとしてのしかかっている。それを朝飯前に感じている人が「軽いですね」とか「大したことないですね」と言うのは自由だけれど、それがものすごい負荷の人もいるのだ。さらに1キロの重荷をかついでいる人がいれば、その朝飯前の人にとっては荷物なんて呼べるものではない。朝飯前どころか指数本で持ててしまう。けれど、その1キロだって重くて重くて、苦しくて仕方がない人がいる。だからたしかに重さだけで言えば1キロは10キロの10分の1でしかなく、圧倒的に軽いのかもしれない。大した重さではないと言える。しかし、大事なのはその人にとってそれが、その重さがどう感じられるかということなのだ。
 冒頭の話に戻りたい。じゃあ、わたしはその方のことを今回のことを理由にして嫌いになってしまったかと言えばそんなことはない。ただ、限界というか、人間は完璧な存在ではないといいうことを教えられたように思うのだ。その方の悪い癖はあまり知らないことについても安易にアドバイスしてしまうこと。そして、安易に相手を励まそうとしてしまうこと。でも、こういうことを言っているわたしにだって欠点はたくさんある。自分が自覚していることだけでもたくさんあるし、ましてや自分が無自覚でいて誰かを傷付けたり不快な思いにさせたりしていることは案外あるんじゃないかと思う。完璧な人間なんていない。いや、そもそもありとあらゆる意味で欠けのない人間なんていない。みんな多かれ少なかれ欠点がある。そして、その欠点があるがゆえに愛おしいのだ。完璧に近い人というのはいるだろうとは思う。しかし、その人が完璧だったりそれに近いことがまた欠点だとも言えてしまうのだ。物事は捉え方次第で長所にも短所にもなる。いくらでも反転させることはできるのだ。
 その方にわたしはお世話になっているし、なってきた。だからわたしはその方のいい所とか素晴らしいところもたくさん知っている。こういうことを言うのも何だけれど、少しばかりわたしはその方を理想化して自分の理想の人間像を投影してしまっていたのかもしれないと思う。だから、今回のようなことがあるとがっかりしたり、少しばかり裏切られたように思えてしまう。でも、みんな欠点がある。逆に完璧で完全だったらそれは面白くないし、愛おしさもわいてこない。逆に言うならその人の欠点こそがある意味チャームポイントにもなり得るし、その人らしさでもあるんだ。安易にアドバイスしようとしたり、励まそうとするのは問題だと言えば問題だけれど、その方の視点に立つのであれば、困っているように見えたわたしを何とかしようと思ってアドバイスをしてくれたのだ。しょげているように見えたわたしに希望を持たせたいと思って励ましてくれたんだ。だから、結果的にはちょっとなーって感じにはなってしまったけれど、悪気は全然なくてむしろそれは善意そのものだったんだ。良くしよう、良くしてあげよう。困っているようだから手助けしてあげよう。そんな優しい気持ちがその言葉にはあったのだ。貶めようとか傷付けてやろうとか、そんな悪意は微塵もない。そんな気持ちをわたしの方こそ汲み取った方がいいんだろうなって今、振り返ると思う。
 わたしもその人の状況とか置かれている場所などを確認しないで安易にアドバイスしてしまうことがままある。だから、人のことは言えないんだ。アドバイスをしたくなってウズウズし出したら、それをちょっと我慢してそれよりもその悩んでいるというその人に寄り添えたらなと思う。で、本当にここぞ、という時にだけズレていないアドバイスをビシっと的確にする。ジグソーパズルでピースがピタっとはまるようなアドバイスが理想。と言いつつもそんなのはわたしには無理だろうから自分の無力さを感じながら何もアドバイスなんかしないで一緒にただそこにいるんだろうな。
 共にいる。寄り添う。その難しさを感じた今回の出来事。アドバイスしたくなったら少しその前に立ち止まって考えたい。そのアドバイス、相手に本当に必要なんだろうかってね。

PAGE TOP