マザー・テレサの本を読んでいると、わたしは自分のことだけを考えていていいのだろうか、という一抹の思いに駆られる。わたしの人生はわたしのものなのだからとどう生きようがそれは自由でしょ、などとまで言い切ってしまうつもりはない。けれど、何だかマザー・テレサの言葉は「それじゃあダメじゃないの?」とわたし自身、彼女と会ったことはないものの言われているような気がして、まるでのどに魚の骨が刺さったような、そんな感じがしてくるのだ。
たしかにわたしの人生はわたしのものなのだからどう生きようともそれは自由なのかもしれない。でも、何かひっかかってスッキリしないんだ。
最近、またアーユルヴェーダに割合熱心に取り組む感じになってきて、朝風呂を再開した。が、どうもこんなことをしていていいのかなぁ、と思ってしまう。何も以前、朝風呂とは何様かなどとわたしのことを批判してきたYさんのことを持ち出すまでもなく、なんだけどマザー・テレサの本を昨日読んだら、その朝風呂とごま油のオイルマッサージがとても罪深いことをしているように思えてきて、どうも気持ちが晴れない。
世界人口が80億人を突破したらしいというニュースをもう結構前に聞いたわたしだけれど、その80億のうちの1人であるわたしが何をしようがさしたる被害もないし、影響力や世界に与える力の点からしても微々たるもので、何もそんなに自分のことだけをわたしが考えてしまっていることに罪悪感とか後ろめたさなどは持たなくてもいいんじゃないかという風に考えることもできる。わたしって真面目なのかな? 自分のやっていることが自分勝手だということをここまで過剰に気にするんだからさ。
結構、最近の若者というのは自分のことしか考えていなくて、社会を良くするために何かアクションを起こそうとか、何かできることをしようとか、そんな気はさらさらなくて、ただネットの動画をひたすらダラダラ時間つぶしに見て、自分の着たい洋服を着て、まぁ適当に食べたいものを食べてみたいな感じなのだろうか、などと勝手な若者像を想像してしまうのだけれど、若者と言ってもいろいろいるだろうから決めつけるのは良くないな。
80億人のうちの1人でしかないわたしが何をしたところでたかが知れていて、それだったら好きなように生きればいいんじゃないのと短絡的に考えてしまう。
というか、この自分が好きなように生きるという考えに決定的に欠けているのは神様がどのようにわたしに望まれているかという視点だ。わたしが、わたしが、というだけになってしまっていて、神様が何をわたしに期待されているかということがないがしろになってしまっている。神様の視点。でも、それすらもわたしには拒否する権利があるなどと傲慢に考えることも一方ではできる。神様が何をわたしに望んでいるかは分からないけれど、そんな一方的な思いを押しつけないでくれよ、みたいなね。
昨日、珍しく長いお祈りをして洗いざらい神様に打ち明けたんだけど、どうやらわたしの中で一番ひっかかっているのが貧困とか飢餓の問題のようなんだ。世界でお腹をすかせている人たち、満足な食事を取れていない人たち。そして、貧しい劣悪な生活を余儀なくされている人たち。そんな人たちを助けたい。そういう思いがわたしの中にはあるようなんだ。そのために何ができるか、ということなんだけれど、もっとこの分野のことを学ぶ必要があると改めて感じたんだ。って相当前にも同じことをブログに書いたっけな。で、結局勉強が続かなくて頓挫してしまった、みたいな。こうした問題が心のどこかにひっかかってはいるものの、それでも熱意というか関心を持ち続けるのは難しいと改めて思う。一般の人たちだって世界の貧困・飢餓問題に3分くらいは心を痛めるけれど、でも、それが過ぎてしまえばまるでそんな問題などなかったかのようにまた日常が続いていく。まぁ、他人事と言えば他人事で、自分がお腹をすかせているとか食べ物がないとか買えないとか、そういう話ではなくて、ただ世界には困っている人がいるんだな程度の認識と言ったらいいだろうか。
わたしは自由だ。だから、どう生きようが自由だ。何をしても自分や他人を傷つけない限りは自由だ。自由。圧倒的自由。でも、恵まれていて自由に生きることができるからこそわたしには他人のことも考える責任があるのだと思う。自分だけ良ければそれでいい、というのは利己的そのものでお粗末な生き方なんじゃないか。わたしは他者のことも考えたい。他者のことも考えながら生きていきたい。そのためにはアーユルヴェーダの本にもあったけれど、まずは自分を満たすこと。自分の体と心を元気に健やかにして、十分に満たして他の人のことも考えられるだけの余裕を持つこと。自分がいっぱいいっぱいで、苦しくて苦しくて仕方がない。渇いて渇いて仕方がない。誰か助けてほしい、では他の人のことを考えることはできないし、最悪の場合、一緒に共倒れになってしまう。
だから、朝風呂もごま油のオイルマッサージもやった方がいい。それで自分自身が満たされて活力がわいてくるのであれば、何も浪費しているわけではないのだから、やっていい。でなかったら、わたしも一日1ドルとか2ドルで生活しなければならなくなる。けれど、それでは貧しい人がさらにまたもう一人増えただけで何も問題は解決する方向へは進んでいかない。困っている人が増えても仕方がないのだ。
そうではなくてこの事態を打開するためには専門的な知識を持つ必要があるんだ。そして、しっかりとこの状況を把握して的確に行動するんだ。
今のわたしの状況は世界の貧困・飢餓問題をかじり始めたかなぁという程度。いわばビギナーで初心者で初学者。だから、まだこの世界を見渡すことができていない。まずは、この世界をよく知ること。貧困や飢餓がどういう構造で起こっているのか。そして、これらを解決しようと人類はどのようなことしてきたのか。そして、今どこまで来ているのか。問題を解決する上で何か障害があるとすれば何が問題となっているのか。まずはこれらのことを勉強して把握するだけでいいと思う。まずはそこからなのだ。
自分を満たす。そしてできる範囲で学びを深めていく。何も特別な大層なことをするわけではない。しっかりとできることをやっていくのみだ。ぼちぼちやっていきたい。
追伸
朝風呂とオイルマッサージ、3日目にして効果が現れてきた。お肌がつるつるになってきて見た目も素晴らしい。グレート!!
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。