人と比べることなかれ。分かっている。頭では分かっているんだ。でも、どうしても人と比べてしまう。そして、自分が何だかみじめに思えてきてしまう。
これは修行が、修練が足りないのだろうか。心を鎮める修行が足りないのだろうか。
事の発端は、わたしたち親子が買い物へ出掛けたことなんだ。彼らは何も意識していなかったかもしれないけれど、彼らの様子はわたしに凄まじい劣等感を植え付けた。それは仲睦まじく若いカップルが買い物をしていたんだ。結婚しているのかな? それはどうだか分からない。でも、とりもなおさず仲が良さそうで二人の間には笑顔がこぼれている。
ひ、人の幸せを素直に喜ぶことのできないわたし。どうしてもその幸せそうな人たちと自分を比べて落ち込んでしまう。どうしたらいいのだろう。比較することをやめればいいのだろうか。いや、もしかしたら今あるものやあることに注意を向けた方がいいのかもしれない。
今あるもの。わたしに与えられているもの。それは母が生きていてくれていること。猫のルルが生きていてくれていること。祖父が施設にいながらも生きていてくれていること。住む家があること。何だかんだで生計をやりくりできていて平穏な生活が送れていること。日本が戦争をしていなくて、勉強とか母との他愛もない冗談話ができること。
与えられている。何だか、自分がすごくワガママだったような気がしてきた。与えられているじゃないか。たしかに豊かな糧が与えられているじゃないか。それなのに、他の人が与えられている、隣の家の芝が青いなどと思ってしまった。
でも、自分が何かを食べていて、あるいは何かを持っている隣で、もっといいものや豪華なものを持っていたり、豊かな暮らしをしている人がいたらうらやましいと思ったり嫉妬したりするのは当たり前なのではないかと思う。それを嫉妬しないようにする。他者の幸福を手放しで喜ぶ。あぁ、わたしはそこまで人格的にできてはいないし、到達できていないなぁ。
けれど、いつかは他者の喜びを自分のことのようにテンションを高くして「良かったですね!」って喜べるようになれたらって思う。キリスト教の隣人愛っていうのは、つまるところ、そういうことなんじゃないかな。自分を愛するように隣人を愛するっていうことは、隣人の喜びを共に喜ぶ姿勢だと思うんだ。嫉妬ではなく、羨望でもなく、共に喜ぶ。なかなかこれができている人っていないんじゃないか。大抵の人は自分よりもいろいろな面で恵まれている人、精神的、肉体的、経済的に自分よりも上を行っている人を見ると心が穏やかではいられなくなる。
星さん、ここが正念場ですよ。一皮むけるかどうか、ここにかかっていると思いますよ。
で、で、でも、やっぱりうらやましいものはうらやましいし嫉妬してしまうよ。ってまた最初に、入り口に戻ったな。
さて、と。
何かを手に入れることって同時に何かを捨てることだと思う。選択するってことはそれ以外を捨てることでもあるんだ。リンゴかミカン、どっちを食べようか、って思った時に、リンゴを食べたら最初にミカンを食べることは当然できなくなる。あるいはリンゴでもミカンでもなく何も食べないという選択肢もあったのに、それもできなくなるんだ。
そう考えていくと人生って道だなって思う。この次を右に曲がって、それから左、またその次はまっすぐ直進。それでその次はまた右に曲がって、それから……。そんな感じで自分で道を選んで、選び続けてわたしたちは生きているんだ。今このたとえでは先に進んだけれど、何も進まずとりあえず立ち止まっておく。考えて、それから進むんだ、という選択肢もある。先に進むだけが能ではなくて、進まないことも立派な選択肢の一つで、進んだり、進まなかったり、進むんだったら右に曲がったり、左に曲がったり。
こんな調子で人生を進んでいくと必ずどこかにたどり着く。それが計画通りだったのか、それとも行き当たりばったりで漂着したかのようなものなのか、それは人それぞれだと思うけれど、必ずどこかにたどり着く。だからこそ、どこに行きたいのか。どうなりたいのか、っていうのをイメージしてその目的地を設定しておくことは必要なことなんだ。もちろん、わたしはノープランで目的地なんか設定しないで、ただあるがままに流れ着いたところが目的地さ、とさらりと言うのもありだ。
目的地にたどり着くのに必要なものは何か、と考えるなら、先ほどの異性のパートナーはわたしに必要なのだろうか。ただ、人が持っているのを見てうらやましくなって「じゃあ、わたしも」みたいな感じではきっとおそらく失敗することだろう。行動には責任がつきもので、自分の行動には責任を取らなければならないのだから軽はずみな行動は良くないし身を滅ぼしてしまうことだろう。
何かの本に、「必要なものと欲しいものは違う」ってそういえばあったな。欲しいものは単純に欲望が喚起されてできたものだけれど、必要なものっていうのはないと本当に困ってしまうもののことを言う。
と、何だか頭がいろいろここまで書いてきたらいっぱいになってきてしまった。
わたしが目的地にたどり着くのに本当に必要なもの。そして、他者へのリスペストと共感。つまり、わたしはわたしで山登りをしていて、別の登山者が恵まれた装備やいいものを持っていたとしてもそれを「いいですね」と素直に嫉妬でも羨望でもなく一緒になって喜ぶ。そして、方向が同じだったり、目的地が同じだったら一緒にしばらく行ってもいいし、という話なんだろうな。
わたし以外の別の登山者がいい登山靴をはいていたり、いいリュックサックを持っていたり、大量の食料を持っていたり、同伴者がいたりしていても、それが自分にとって必要なものでなかったら無理をして同じようにすることはない。わたしはわたし。他者は他者なのだから気にせずわたしは自分の登山に集中するのみ、ということのように思えてきた。それにわたしと別のある人では目的地が違うかもしれないから、必要なものだって異なる。さらには、目的地が少しずつ変わっていったり、大幅にプラン変更することだってある。だとすると、自分固有の装備だったり所持品で行かないと、他の人と同じようにしていたら困ってしまうのではないか。だから、みんな装備も所持品も違う。そして、登山者自身の能力自体も違う。そうか、だからなおさら人と比べる必要はないんだな。なかったんだな。やっとはっきりしたよ。
わたしはわたしの目指す山の頂目指して登っていく。それだったら、目的地をしっかりと設定しないとな。大まかであっても目的地を決めておかないとな。でないと行き当たりばったりになってしまって迷子になってしまうよ。目的地とそこへ行くための地図。この二つをしっかりと定めてやっていけたらと思う。でも、人が何かやってると、目指していたりするとそれもいいかもなって思っちゃうんだよな(笑)。いやはや、自分の意志を持ってしっかり登ってこー! 目的地ってすごく大事だな。

変な人。
普通ではないと思う。
わたしが思っていることを言うとみんなひく。
そして、目の前にシャッターを下ろされて、
まさに閉店ガラガラ~。
わたしは気が付くと蚊帳の外。
なぜなら、今、大人気の
カヤノソトボーイズの2期生の瞑想担当だから。
最近、瞑想してないけど。でも、瞑想担当なんで。
そう、なんか浮いてるの。
この世界、日本という社会から。
わたしは何だかんだ生きづらい人生を送ってきた。
「もっと苦しくてつらい人はいっぱいいる。
お前のは大したことないだろ」、と言うやついるけれど、
苦しさ、大変さ、生きづらさはその人が感じていること。
その人の苦しさを分かっているのはその人だけ。
気が付いたら職歴ゼロ、社会経験ゼロの立派なメンヘラのおじさん。
わたしはしゃべんないほうがいいと思う。
しゃべるとその見た目にあまりにもギャップがありすぎるから。
わたしが自分のことを語れば語るほど、
女の人はがっかりします。失望さえします。
でも、いいじゃないの。
普通じゃないのがわたしなんだから。
わたしは風になりたい。
風になってただ吹いていたい。
【属性】
男。大学中退。吃音。統合失調症。精神障害者。希死念慮あり。現実感の喪失。無職。プロテスタントのクリスチャン。ヨギー。スターシード。英検3級。茶髪。HSPとASDの可能性あり。細身筋肉質。
