ちむどんどんという生き方

いろいろエッセイ
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 胸が高鳴る。心臓がドキドキする。つまり、気持ちが高揚してわくわくする。それを沖縄の言葉では「ちむどんどん」という。
 連続テレビ小説「ちむどんどん」も終わりまであと残すところわずかとなり、フィナーレに向かって幕を下ろし始めたかな、というところ。
 この朝ドラからわたしが教わったこと、というか改めてそうだなぁと思ったことは、自分の思いを大切にするということ。故郷の沖縄に帰ってくるか、それとも東京での暮らしを続けるか迷ったときにヒロインは「ちむどんどんするかしないかだよね」と夫に言い、ちむどんどんする方を選択する。
 この、ちむどんどんするかしないか、というのは自分の直感に従うということ。自分の直感がおもむくままに、でもしっかりと考えながら彼女は選択していく。
 これはアーユルヴェーダ(インドの伝統医学)でいうところの自分の体と心の声を聴くっていうあり方と近いなってわたしは思ったんだ。頭ではこれをやらなきゃとか、こうした方がいいとか、これをすべきとか、いろいろ縛り付ける考えが渦巻いているけれど、じゃあ、自分は何を望んでいるの、って他でもない自分の体と心から聴く。そうすると案外、まともな答えが出るんじゃないかっていうことなんだけど、実際わたしもそう思う。
 ヒロインも劇中ではそういう描写はなかったけれど、自分の体と心の声を聴いていたんじゃないかって思う。いや、そこまで感覚を研ぎ澄ませていなかったとしても(それはどうかは本人にしか分からないけれど)、自分自身からの内なる声を無視するなんてことはしなかったはずだ。
 わたしたちはちむどんどんするどころか、自分を酷使して自分いじめを時にしてしまう。自分の体と心は悲鳴を上げているのに、それでもコキ使って、無理をさせて、限界以上のところまでやってしまう。そんなみんなが無理をしてしまう時代だからこそ、あのヒロインの生き方には教えられるところがあり、インパクトがあるのではないかと思う。
 ちむどんどんしないことをやってはいけないのではなくて、ちむどんどんする生き方をしていってもいい、ということではないかなと思う。
 もちろん、わたしたちの日常はちむどんどんすることばかりではない。こなさなくてはいけないルーティンワークなどの日々の雑用もある。そもそも24時間365日、100%ちむどんどんするなんて無理な話だ。それでは体も心ももたないし、おそらくそれではテンションが高すぎて夜眠れなくなってしまうだろうし、バランスを崩す。ヒロインだってそこまで気持ちが高揚し続けているわけではないのはお分かりだろう。
 でも、要所要所で、つまり大切なところで、自分は今この選択をしようとしているけれど果たしてそれでいいのかってなった時に、ちむどんどんするかしないかっていうのは自分に正直で素直な無理のない決め方だと思う。反対にちむどんどんしないことって何かあるんだと思う。何があるかって言うと、頭ではどんなにそうすべきだと思っていて反論の余地がなかったとしても、自分の本心が拒絶反応を示しているということだ。つまり、嫌なのだ。やりたくないのだ。それを理屈とか理性とかで無理にねじ伏せようとするのはやっぱり後々ガタがくることだろう。
 アーユルヴェーダを持ち出すまでもなく、自分の体と心というものはとても正直だ。少なくとも嘘はつかない。彼らがそれをやりたくないとか言っているように感じるのであれば、やっぱりそれはやりたくないのだろうし、それこそ自分の本心であり素直な気持ちなのだ。
 人間に備わっている偉大な力。それは自分に必要なものを取り入れ、不要なものを遠ざけること。目の前のものが安全なものか、そうでないかを見分けること。人間の直感というものは侮れない。瞬間的に、1秒もたたない間にそれが大丈夫かどうか見分ける。だから、何かにちむどんどんするとしたら、やはりそれには何かがあるのだ。自分がそれにわくわくするのだから、きっと何かがあるのだ。それが自分に恵みをもたらしてくれることを本能的に嗅ぎ取っているのだ。ちむどんどんするものには何かがある。そして、しないものにも何かがある。その何かをわたしたちは本能的に察知する。よく人間関係で、マイナスの要素は何もないはずなのに(と自分では思っているのに)なぜか嫌な感じがする人っていないだろうか。つまり、それもわたしたちの本能というか感覚的なものが瞬間的に判別しているのだ。
 わたしたちが置き去りにしてきてしまった生き方。忘れてしまっている生き方。それがちむどんどんする生き方ではないだろうか。もちろん、だからといって、ちむどんどんしなければならない、とか、ちむどんどんできないわたしはダメなんだなどと思う必要はない。なぜなら、ちむどんどんする、までいかなくてもかすかな胸の高鳴りは誰しも生きていればあるからだ。だから、そのわずかな、ほんのかすかな高鳴りを見逃さないようにさえしていればいいのではないだろうか。ちむどんどんは必ずしも大きいものである必要はない。もっと言うなら、胸の高鳴りさえなくとも、苦痛が一瞬であっても(ほんの数秒かもしれない)やわらぐ瞬間。その瞬間をしっかりと味わうことであってもそれには大きな大きな意義がある。
 ヒロインももう少し歳を取っていったら、ちむどんどんする生き方(高揚する生き方)からわずかなちむどんどんを味わっていく、かみしめていく生き方へとシフトしていくことだろう。歳を取っていけば死へと向かって老いていくわけだから、いつまでもエネルギッシュになんていうのは難しい。だからこそ、若気のちむどんどんから老年のちむどんどんへと成熟していくのだ。でも、ヒロインはちむどんどんする心、何かに心を動かして感動する心は決して失わないだろうと思う。もしかしなくても、それが本当の意味でのちむどんどんではないかな。
 ちむどんどんが大きいか小さいかではなくて、わたしなりの胸の高鳴りに素直に生きていけたらと思う。何かに心躍らせる、まさにちむどんどん。世界はきっとたくさんのちむどんどんであふれているはずだし、そうあってほしい。

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