どこでよしとするか。満足するか。それによって生き方は大きく変わってくる。妥協するのも一考。妥協せずに猪突猛進するのも一考。わたしのこれからはわたしの考え次第なのだ。
何もわたしは希望にあふれるほどの知性を持っているわけではない。だから、たかが知れていると言うのも何だけれど、その程度なのだ。平凡などこにでもいるお兄さん。人よりも優れていることなんて、あまりありませんな。
しかし、それでもわたし自身、勉強するために学校へ行きたいという気持ちもある。放送大学もいいけれど、より専門的で特化した学校に行きたいと思っているのだ。学校。けれど、立ちはだかるのはお金の問題。本当、学校って金食い虫だよね。授業料年間120万円とかって本当、信じられないよ。何だかんだ数年間通ったらウン百万円、下手したら生活費を含めて1千万円くらいいっちゃうよ。
何かで活躍するためには学校を出ていた方がいい。いや、必須と言ってもいいだろう。
と書きながら面白くない。本当、つまらないよ。この世の中、絶対腐ってる。というか、お金持ってる人間が有利に立ち回れるように、世の中の仕組みが出来上がってる。それはまぎれもない事実だと思う。
と書きながら面白くない(2回目)。というか、ここで負け犬の遠吠えみたいにワウワウ、バウワウ唸ってても世の中は変わらないし、良くならないよ。ピー(ホイッスル)、不満タイム、不平タイム、終了!!
よし。よしとする。学歴にしても何にしてもどこでよしとするかで人生の方向性は決まっていく。決まってくる。そうか、そうだな。足るを知らない人間はどこまで行っても満足できないっていうことか!! 貪欲にひたすら貪欲に求め続けていく人。道を求める人。たしかにそれも生き方としてはひとつあるかもしれない。でも、どこまで行っても満たされないのってかわいそうな気がしてきたな。まわりから見たらものすごく豪華な御馳走を食べていて、いい暮らしをしていて、みんながその人に憧れるくらいなのに、その人はいたって不機嫌。足りない病にかかっていて、ひたすらもっと、もっとと求め続ける。そして、どこまで行っても、どこまでやっても一時的な清涼感のような満足感はあっても、まだ足りない、足りないと心が疼き出す。
勉強だって仕事だってそれは同じじゃないかと思う。一流大学を卒業しても、さらにその中でも成功している人がうらやましくなってくるし、仕事だって社会的には一流の会社に入れて、それはそれはクリエイティブな責任ある重要な仕事を任されているのにどこか不満でいっぱい。
満たされない。満足できない。よしとできないのってどこか病んでいると思う。人間が向上していくには満足しないで求めていく姿勢も必要だけれど、それが全面に出ちゃうと苦しくなってくる。
一方、何も世間一般から見たらできていなくて、中途半端で、やる気なんてものはなくて、もちろん学歴もなければクリエイティブな仕事をしているわけでもない。けれど、すごく幸せな人っているんじゃないかな。「わたし幸せだよ」「俺すごく幸せ」。そんな人っているんじゃないかな。もちろん、経済的に窮乏し過ぎていると幸福を感じることは難しいけれど、それでもそうした状況下であっても幸福な人っていそうだなって思う。
幸せって何かを持っているから幸せなのだろうか。何かを手に入れているから幸せなのだろうか。わたしは思う。その人が手に入れているもので満たされていると幸せなんじゃないか、って。また何も手に入れていなくても、精神の至福があるかどうか、という幸福感もある。つまり、自分のことを幸せだと思えたら、たとえそれを他の誰かが「お前不幸だよ」と言おうがけなそうが、そんな批判などとは関係なく、その人は幸せなのである。何だ、すごくシンプルなことじゃないか。自分で自分のことを幸せだと思えれば、はたから見て不幸であるかのように見えても幸せだし、どんなにいろいろなものを手に入れても、みんなが羨むほどであったとしても自分がそれでよしと思えなければそれは不幸なのだ。わたしが言っているのはいわば主観的な幸福のことだとお気付きのことだろうと思う。たとえ、どんなにその人が客観的に不幸だとしてもその人が主観的に幸福なのであれば、少なくともその人にとってはその人自身、幸せなのだ。それは間違いない。
だから、極端な話、フェラーリ乗り回して、タワーマンションに住み、困るほど広い豪邸に住んでいたとしても、それが必ずしもその人を幸福にしてくれるわけではないのだ。そのフェラーリやタワーマンションや豪邸に満足して、「あぁ、わたしって幸せ」と思えなければ、たとえ高価なものであってもその人を満足させて幸せにすることはできないのである。反対に、貧乏生活をしていて、何とか食いつないでいる人であっても、その生活がその人に幸福感をもたらしているのであれば、要するにそれをその人が幸せだなぁと思えるのであれば、それは人から見てどうであれ、幸福だということになるのではないか。
うむ、だいぶ元気になってきたぞ。この記事の書き始めの憂鬱な感じがだいぶ晴れてきた。
よしと言えるか。自分の生活、持っているもの、その他いろいろあるとは思うけれど、それらを肯定して「わたしは幸せだよ」と言えるかどうか。案外これが難しくて、人と比べて意気消沈してしまったりする。でも、人と比べてどうか、じゃない。自分がこれを肯定できるかどうか、なんだ。「よし!!」と言えるかどうかなんだ。
と書きながらもビッグになれるものならなりたいという思いを捨てきれないわたしがいる。でも、もしかしたらビッグになる、大物になる必要なんてそもそもなくて、今ありあわせのもので満足していってもいいんじゃないか。その今持っているもので満ち足りてもいいんじゃないか。もちろん、向上心がないとか、甘えているとか、目標を持たないのはどうかと思う、といったお叱りは免れることはできない。でも、じゃあ、どこまでも満足なんかしないで、貪欲にひたすらハングリー、ハングリーでガツガツ、ガツガツ求め続けていくだけの人生ってなんぼのもんなんですか?、と逆に質問したい。それこそ、貧しい生き方なんじゃないですか、って言いたい。
わたしの好きな言葉にまた新たにひとつ付け加わった。「よし」。いい言葉だなぁ。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。