ぐだぐだ不調日記第7弾「おそらくパソコンとシャワーとドライヤーで」

 調子が悪い。調子が悪くなったら星さんのぐだぐだ不調日記の出番だよ。てなことはそれくらいにして、それにしても調子が悪い。何か頭がフリーズしていて、難しいことが考えられない上に、って文章が続いて行かない。まぁ、調子が悪いのですから仕方がないですよね。
 第7弾の不調もやはりパソコン絡みなので、何も進歩をしていない星なのです。パソコンを、そうですな。1時間か、1時間半ほどやりましたな。で、それからヘブライ語のお勉強をして、そこまでは良かった。が、そこからが不調へと転落していくのだ。まさにそこからが転落人生。シャワーを浴びたんだ。そこまではいい。そこからだ。いつから調子が悪くなったかと言えば、ドライヤーで髪を乾かしている時あたりから。一番高温のやつでガーっと夢中になって乾かした。そこから。そこあたりから調子が悪くなった。
 ヘブライ語は落ち着いて集中して勉強できたのになぜなのだろう? シャワーを浴びることによって、星の脳の血流が良くなり過ぎたのだろうか。でも、ドライヤーというのが気になる。などと推理探偵のごとく推理している星さん。いや、パソコンを長時間やったというベースがまずあって、それをさらにシャワーとドライヤーの二本立てでマックス状態にしてしまったから不調になったのではないか。うむ、その線が固いな。
 やはり脳のドーパミンが増えすぎるがゆえの不調なのだと思う。この不調は昔、100マス計算をした時と似ている。どうやらわたしの場合、ハイになりすぎると不調になるようなのだ。
 わたしが不調になると、細かいことが急に気になり出す。何か、目に映るものにすべて深い意味があるかのような気がしてくるのだ。普段、細かいことなど調子がいい時には一切気にならなくてスルーできるのに、この不調になるとがぜん細かいことやものが気になり出す。今、これを執筆している場所が台所で目の前には七味唐辛子のびんが、スティック状のびんがあるのだけれど、そのびんのふたに1本ちょろんと付いているおそらく猫の毛がとても気になっているのだ。こんなこと普段は気にも留めない。スルーしていることだ。しかし、今はそれが気になってきてしまう。そうすると、わたしの目に飛び込んでくる情報がわたしを威圧して威嚇してくるような気がしてくるのである。別にそれらに敵意がないことは冷静に考えれば分かる。けれども、それらが迫ってくるというか、圧倒してくるというか。リアルすぎる圧迫を加えてくるのだ。
 だから、いつも相当難しいことを当たり前のようにやっているのだなぁと感心してしまう。いつもやっていることって自動的にあれやってこれやってを組み合わせているわけで、よくぞあんなに複雑で難しいことをやれていたなって自分自身に感心してしまうのだ。何しろ、思考する力が今は落ちているのだから、その当たり前のことがとても難しいまるで神業か何かのように思えてくるのだ。普段ってすげーって思うよ。調子が悪くなってはじめていつもの自分がすごいということに気付かされるんだ。
 どうしてもパソコンをやりすぎてしまう星。ちょっと調べようと思うと大抵かかりっきりになっちゃうんだよな。どうすればいいのだろうか。時間を制限してみる? 1日15分から30分以内にすることを厳守するの、やってみる? やってみようか。自分に質問して自分で答えただけだけど、いい気付きが得られたと思うな。
 あるいはブログの更新を2日とか3日に1回にするっていうのもいいかもね。休肝日ならぬ休パソコン日を設けるんだ。それもいいかもしれない。
 あとヨガをやる時も画面を見ているわけだけど(DVDだからテレビを見る必要がある)、それはさほど悪影響を与えているとは思えないんだ。だから、ヨガはやりつつも、パソコンのスクリーンタイムの時間を減らす方向でやっていけたらと思う。くれぐれもだけれど、ヨガが終わった後にダラダラとテレビを見るのもやめたいな。何だかんだで見てしまうから、これもスパっとやめるんだ。
 何だかぐだぐだ不調日記らしからぬ、抱負日記になってしまったけれど、それも御愛嬌。ぐだぐだだけではないのですよ。抱負も立てるのですよ。ここまででやっと1700文字ちょい。長い長い旅路はようやく終わりを迎えようとしているのだ。あともう少し。ぐだぐだ不調日記も第7弾、そして感動のフィナーレが待っている。
 と時刻は夜の7時10分。明日ももう早いので寝ようと思います。そういうわけで感動のフィナーレは第8弾におあずけなのだわさ。第8弾も楽しみにしていてください。ってできることなら書きたくね~。不調になりたくね~。というわけで第8弾の時に覚えていたら第7弾の感動のフィナーレを、って忘れてるよね、おそらく。覚えていてくださいましたらご指摘を。ま、そこまでそのフィナーレもいいもんじゃないけどね(じゃあ、どういうもんなんだ?)。
 ぐだぐだ不調日記も第8弾は全力でフルキャストで挑みますよ(もちろん星一名で)。何か急にしょぼく思えてきた。想像力があれば気合いを超えるのです。わけわかんねー。混沌。合掌。

とらえ方ひとつで

 日曜日、礼拝が終わり信徒の方と交わりを持つ。礼拝がメインであることに変わりはないけれど、わたしはこの時間がとても好きで、いつも新しい気付きや励ましや慰めなどが与えられる。わたしにとって大切な時間である。
 それは母にとっても同じようで、このブログでもたびたび紹介している教会員のOさんとは親しくさせていただいていて、親子ともどもお世話になっている。
 たしか先週の日曜日の礼拝後だったかと思う。母は早速、Oさんと話をしていて、それに遅れること10分くらいでわたしも話に加わった時のことだった。
 Oさんはわたしにこんなことを言った。それは「とらえ方ひとつで物事は違って見えてくる」というよくありふれていそうでありながらも、深い言葉である。さらに「毎日同じように過ごすんだったら、気持ちが明るくて楽しい方がいいんじゃない?」と微笑みながら言う。
 わたしはこの言葉にひとかけらの真理を垣間見たような気がした。
 仮にわたしが腰が痛いとしよう。朝起きると腰が痛い。姿勢を変えるだけで痛む。もちろん、そういう時はできることはした方がいい。湿布を貼るとか、整形外科へ行くとか、何か良くなる体操をするとか。でも、できることをしたら、やったら、もうやることはないのだ。そうしたことをやって少し痛みが緩和されたとしても痛いことに変わりはない。だったらどうするか。痛いことは変わらないとしても、その意味付けを変えるのである。
 仮に、と腰が痛かったらという話をしたのは、さきほどの話をしてくれたOさんは腰を痛めていて、それはそれは痛いそうなのだ。夜眠っていても痛みで目が覚めることがあるそうだし、朝ベッドから起き上がる時などには激痛が走ると言っていた。でも、Oさんは不平不満や泣き言や文句などは言わない。そこがOさんのすごいところというか、人間的に成熟されているところだと思うのだが、「痛い時、どうそれを考えるのですか?」とわたしが聞くと、Oさんは「神様がわたしに何を教えてくださろうとしているのか考えるようにしています」と答える。さらにOさんは「痛みも神様からの恵みです」とはっきりと言い切る。
 彼女からあふれ出てくる言葉を前にすると、いかにわたしがちっぽけなことで心を騒がせていたかということに気付かされる。話の次元が違いすぎて何だけれど、わたしはこのブログのアクセス数が少ないことについて悩んでいた。ほぼ毎日更新しているのにアクセス数が20って何なんだよ、と不平不満をこぼしていたのだ。20しかないのはなんでだ、と不満だったのである。そう考え始めると、自分が報われていないようで、途端にみじめに思えてくるのだった。何万、何十万、何百万とアクセス数を得て、収益もうん百万も得ているブロガーのトップ集団と比べた時、自分のブログがまるで塵や埃やカスではないか、と気持ちを暗くさせていたのだ。
 でも、Oさんの言葉を聞いたら元気が出てきた。アクセス数にしても20「しか」ないのではなくて、20「も」あるではないか、と。ほとんど文字だけで、2000文字以上もある長文の記事にアクセスが20もある。「も」あるんだ!! 逆に20しかないどころか、20という数がとても多いようにも思えてくる。だいたいわたしが生きているリアルな毎日の生活の中で20人もの人に文章を読んでもらえることなんてまずないだろう。たしかに数千人、数万人の読者がいて、たくさんの人に読んでもらえたらと思う時もある。でも、数もあるけれど、数じゃない。いかに自分が良質な記事を書いて、読者は数人しかいないとしても、彼らにその贈り物を真心を込めて届ける。数少ない読者のために一生懸命いい文章を書くのだ。そして、わたしの文章を読んでくれている人たちが少しでも幸せになってくれればいい。何もたくさんの人に影響を与えることにこだわって、そうでなければ価値がないなどと思うことはなかったのだ。だから、わたしは農家にたとえるなら、家庭菜園くらいの規模で野菜とかの作物を作っていて、それを無料で家の前にでも置いて持って行ってくださいって配っている感じかな(ほぼ無料配布)。持って行ってくれている人は特に野菜の出来映えなどについてはコメントしてくれない。でも、この営みは誰かを幸せにしているんじゃないか。もちろん、わたしの野菜を食べて、腹痛になって便秘とか下痢とかになってしまったとしたら問題だけれど、今のところ、そうした苦情はほとんど来ていない。
 影響力の大きさ。規模。仕事の大きさ。大手出版社から次々と新作を発表している作家さんと、わたしみたいにほとんど収益にもつながらない文章を書いている人。どちらが優れているのだろうか。そう考えるとき、カネを生み出しているかという発想だけで考えるなら断然売れっこ作家の方が優れていることになるだろう。でも、たとえ1円にもならない文章だとしても、作品を発表してそれを数少ない人たちにではあっても読んでもらって、彼らの心を潤しているのだとしたら、それはそれで尊いのではないか。だから、「お前の作品は1円にもならないんだよね。それなのにご苦労様」とか言ってはならないと思うのだ。誰かが誰かを楽しませたり、ワクワクさせたり、感動させたりする。それは賃金が発生しなくとも、そうした営みは尊く貴重で素晴らしいものなのだ、とわたしは思っているし、そう思いたい。
 ここまで少し話が逸れながらも、これはこれで意義があることを書けたんじゃないかって思う。とらえ方。このシンプルなとらえ方ひとつで物事はいくらでもいいようにも悪いようにも、まるでコインの裏表のように反転させることができるというのは、同じ状況であっても違うように解釈することができるということだ。
 だったらわたしはネガティブな面を見るのではなくて、ポジティブな明るい側面を見ていくようにしたい。そして、状況が変わらないのであれば、心に明るい灯をともして人生を楽しんで行けたらと思う。状況というものは人生において大きく作用してくるけれど、それだけではなくて、それをどのように受け止めるかという受け止め方が人生に大きな影響をおよぼすのである。
 お会いするたびOさんはとても幸せそうだ。わたしもOさんにならって、笑顔で楽しく快活に日々を生きて行けたらいいな。人生の方向性を先輩クリスチャンとして示してくださったOさん、そしてOさんを通してわたしに恵みを降り注いでくださる神様に感謝、感謝なのである。ありがとうございます。

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