先週、疲労のため礼拝をお休みしたので、2週間ぶりの教会だった。意気揚々と礼拝に出席した星だったけれど、説教を聞いていたらものすごく疲れてきた。久しぶりの説教ということもあったのだろう。しかし、それにしてもこの疲労感は一体何?
もちろん説教の時間が30分くらいと長いこともあったとは思う。しかし、尋常ではなく疲れたのだ。
何か面白くない。楽しくない。つまらないわけではないんだけれど、とにかく疲れを催すなんて、クリスチャンとしてあるまじき発言だということは重々承知している。星さん、不謹慎だよ。説教はエンターテインメントじゃないんだからさ、って言われてしまいそうだ。でも、何だか気持ちがふさいでくる。とにかく説教のひとこと、ひとことが何だか重くて、ありがたいことは分かるのだけれど、気持ちがどんどん重たくなってくる。全然、牧師の説教が頭に入ってこない。星さん、ドンマイ。そういう日もあるさ、って励ましてくれる人もいそうだ。でも、それにしてもこの停滞感、閉塞感は一体何なんだろう。
で、思ったんだけれど、牧師の説教は神様のことばだから、神様のことばって苦いのかもしれないな。まるで、漢方薬みたいな、そんな感じがする。漢方薬って苦いよね。全然おいしくないし、ジワジワ効くような薬だから、即効性はあんまりないし。もしかしたらキリスト教ってじわじわなのかもしれないね。まるで、食べ物でたとえるならスルメみたいな。スルメって口の中に入れてもほとんど爽快感ないと思うけど、でも、じわじわ、じっくり味わってかみ続けているとものすごいうま味が出てくる。
でも、この清涼感のないキリスト教は若者ウケしないんだ。わたしの行っている教会には20代、30代の若者がほとんどいない。ほとんど、というかゼロだ。わたし以外の若者と言えば、中高生と40代後半の人たちくらい。何と38のわたしがうちの教会の最年少なのだ。教会員でわたしよりも若い人はいないのである。これは危機的状況じゃないか。だって、この調子で主力の70代の人たちが歳をとっていってこの世を去っていったら本当にわずかな人しか残らないよ? 教会員の高齢化は深刻でこれからどうなっていくのか、と考えると気が重くなってくる。
こ・れ・を打開する方法が一つだけある。それは礼拝を、そして説教を面白くエンターテインメントにすることだ。ってそんなことしていいんかい!! そんなことしたら祈りの共同体である教会が最終的には○ィズニーランドとかアミューズメントパークになっちゃうよ。
教会の礼拝と称して、ロックバンドが教会に殴り込みをかけて「盛り上がっていこーぜ!!」と礼拝堂で大音響でライブ礼拝をかます。「神さま~俺たちのきたねー罪をゆるしてくれー!!!」とシャウト。モヒカン牧師がまるで即興劇みたいな面白い説教を役者以上に縦横無尽に語り尽くして聴衆は釘付け。
ってそんなの、だめだよね。そんなの礼拝じゃなくて単なるエンタメだ。娯楽だ。
でも、これは極端だったけれど、教会を変えていくことはできるんじゃないかってわたしは思う。あまり高度な神学は説教に盛り込まないで、とにかく分かる、分かりやすい説教をやってもいいんじゃないかなぁ。クオリティーを下げるのではなくて、分かりやすくしながらも決してレベルは下げない。そんな説教が語られたら教会も盛り返すと思うんだけどな。
っていうか、そもそもクリスチャン人口って1%にもならないんだよ。その稀少な人々(クリスチャンだけではなくて、礼拝に出席するような人々も含む)に高度な神学を展開したところで一体どうなるのだろうか、という気がしないでもない。でも、まるで頑固な職人のように玄人にしか分からないような重厚な説教をする牧師も少なからずいる。それはそれでいいと思うけど、わたしは言葉っていうものは伝わってはじめて意味を持つものだと思うんだ。伝わらなかったら意味がないよ。実際、神様だってイスラエルの民にはヘブライ語で語られたわけだし、それに神様って意味不明な不可解なことをほとんど言ってないんだ。ちゃんと人間に分かることを言ってくださっている。しかも、多くの人にね。ま、わたしがあまり優れた者ではないから牧師を通して語られる神様のことばが理解できなかったのかもしれないな。
確実に言えること。それはこのまま行ったら日本のキリスト教は衰退していく。(いや、もうすでに衰退して行っているけど。)でも、そんなことは気にしなくてもいいのかな。もし、今わたしが所属している教会が将来、教会員があまりにも少ないために閉鎖されることになったとしても、牧師の数がゼロになることはないだろうから、牧師の説教動画とかを配信で聞けばいいんだ。教会がなくなってしまうのはとても寂しいことだけれど、教会という一つの組織に固執せずに自分の信仰を持ち続けていけばいい。2人、または3人、イエスさまを信じる人が集まれば建物なんかなくたって、もうそこは教会なんだから家庭集会とかやってもいいと思うし、方法はいくらでもある。ネットもここまで発達してきたから、未来では新たなツールもできていることだろう。バーチャル教会とかできているかもしれないよね。自宅にいながらにして教会に行くことができるみたいな装置ができあがっているのかもしれない。
ま、その時はその時。何とかなるさ。なるようになるんだから大丈夫だと思うしかない。だって未来のことなんて誰にも分からないんだから。予測することだってできないんだから。ここまで、教会の未来について思いを馳せる星なのであった。未来はきっと明るい。だから、案ずるより横山やすし(産むがやすしだろ。ここまでの真面目な話全部ぶち壊しだよ、星さん。)。てへ。

80年代前半に静岡で生を受ける。
自称エッセイスト。
吾輩はエッセイストである。収入はまだない。
ほぼ毎日、ヨガの道場へ通ってヨガをやっている真面目そうに見える人。
エロコンテンツがやめられないと未だに悩んでいる人でもある。
この調子だとたぶん今世で悟るのは無理。
また、何気にクリスチャンでもある。
それから時々、どもる。吃音なので。
ブログに閑古鳥が鳴いて久しい。
有名になりたいけれど、なりたくない。
成功したいけれど、成功したくない。
ぶれている。
最近、歳が近い知人に子どもが生まれた。
その人のためではなくて、自分のために積み木をひそかに買った。
まだやっていない。やろうと思っているところ。
積み木遊びを始めようとしているアラフォー男子。
年齢制限が1歳以上なので条件は満たしている。
じきに哺乳びんデビューするかもしれない。
冗談はそれくらいにしておけ。
みんな引くから。
空気を読みましょう。