わたしのXデーに向けて

キリスト教エッセイ
この記事は約4分で読めます。

 将来について考えていたわたしだが、何か脱力してきた。
 一つの真理。それはわたしが死ぬということ。そして、死ぬ際にはお金、物、地位や肩書きを何も持って行くことができないということ。
 この世とは生きている間だけいることのできる場所で、死んだらいることはできない。当たり前のことだがこのことを多くの人が見落としている。
 社会的な地位や名誉などを得るためにやりたくもないことをする。お金を得るためにやりたくもない仕事を人生の多くの時間を使ってする。世間の人々、みんなは「すごい、すごい」とほめてくれる。「でも、だから何?」「それがどうしたの?」「たしかにすごいかもしれないけれど、だから何?」と死の一点をただ見つめている哲学青年は問うことだろう。その青年には「そうだね。だから何なんだろうね」と言うしかない。
 わたしたちの人生は有限だ。有限な時間によって人生はできていて、その時間を消費しながらわたしたちは生きている。生きるとはその時間を使って何かをすることである。そう考えると、やりたくもないことのために自分の命の一部である時間を使うのはもったいなくはないか。もちろん、こんなことを言うのは世間知らずで苦労をしていないからということもあるだろう。でも、突き詰めて考えるとそういうことになるのである。時間がわたしの所持金だとすると、何かをするごとにそのお金は減っていくのだ。わたしがいつ死ぬかは分からないけれど、わたしが死ぬ日があらかじめ決まっているのだとしたら、そのXデーまでの残りの時間を使っているということになる。そして、その残りの時間がなくなった時、わたしたちは天に召されていくのである。だから、人生とはカウントダウンのようなものであり、いつ爆発するか分からない時限爆弾を抱えているようなものなのである。
 以上のことを踏まえて考えると、やはりわたしは好きなことだけをやっていたい。「甘い。そんなの甘すぎるよ」という声が聞こえてきそうだ。でも、それならそれでいい。わたしの人生はその批判をしてくる人のためにあるわけではないからだ。その人がわたしの人生の時間を増やしてくれたり、自分の人生の時間をくれるというのなら、そうした批判も甘んじて受けよう。けれど、そんなことができる人はいないし、考えてみればわたしがわたしの時間をどう使おうとそれはわたしの自由ではないか。わたしの裁量のゆるすところではないか。
 わたしのXデーまでの残りの時間は神様だけがご存知だ。極端なことを言えば、もしかしたらわたしは明日死ぬかもしれない。多くの人が「そんなわけないよ」と言うことだろう。しかし、おそらくわたしは明日も生きているだろうが、その保証は厳密に言えばないのである。未来のことは人間には分からないのだから当然のことだ。
 だからわたしはこの与えられた一日一日を精一杯悔いなく、いつ死んでも後悔しないように存分に生きていきたいと思う。もしかしたら、今日が最後の日なのかもしれない。だから、全力で、とは言わないけれどやりたいことをやって日々を満喫していきたい。楽しんで大いに味わいたい。そして、その後には天国が待っている。
 こういうことを考えるとわたしは何をしている時が一番幸福なのかと自分自身に問わずにはいられない。わたしは、読書と執筆だ。これをやっている時が一番充実していて楽しくて幸せである。
 わたしに与えられた神様からの時間を存分に生きていきたい。自分が死ぬ間際になっていい人生だったと思えるような、そんな生き方をしていけたらと思う。その時になってからでは後悔してもしきれないことだろうから。

 <追伸>
 わたしの中で迷いが生じている。自分のためだけに多くの時間を使う生き方が果たしていいのかどうか、葛藤が生じているところなのである。自分の時間を他人のために使わず利己的にむさぼるような、そんな生き方でいいのか分からなくなっている。わたしは他者に仕えるような、自分の人生の時間を他者のために使うような生き方をした方がいいのだろうか。本当に豊かな生き方とは一体何なのか。いや、もっと問うなら、本当の意味で豊かな生き方をすべきなのか。すべきだとしたら誰が命じるのか。やはり神が命じられるのだろう。その神に従いたくなくても、神なのだから従わなければならないのか。自分の時間を捨ててまでして。つまりは、神に人生を捧げるとは自分の時間をすべて他者に投げ出すことなのだろうか。自分の時間を他者のために使うということは自己犠牲であって、友のために命を少し削ることなのだということだろうが、わたしはそれをしなければならないのか。神がそう命じるから? 神様がそれをやりなさいと言うから? それが働くことであり、大人になるということなのだろうか。このことについて考えなければ。
 これは核心をつく問いだと思う。つまり、自分の時間を他者のために使うことを最大限まで振り切った究極の形が、他者のために死ぬということなのではないか。そこまで行かなくとも、その方向に進むことが他者のために自分の時間を使うことなのである。要するに自己犠牲。
 イエスさまの言葉を福音書から聞いていきたい。

PAGE TOP