自己紹介

いろいろエッセイ
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固定ページの「自己紹介」(https://hoshi3.net/jikoshoukai/)を新しく書き直したのですが、読んでもらえていないようですので、ここにも同じ文章を掲載したいと思います。長文ですが、わたしの人となりが表れていますので、読んでいただけましたら星のことがさらにわかっていただけるかと思います。

自己紹介

 1983年静岡生まれで静岡育ちの生粋の静岡っ子。性別は男性。2018年のクリスマスに受洗。

 わたしの生まれた場所はさくらももこの「ちびまるこちゃん」の物語の舞台でもある場所あたりで、ちびまるこちゃんを見ているととても懐かしいのです。あの地域がわたしの幼少期を過ごした場所なのです。だから、ちびまるこちゃんの世界が他人事とは思えないのです。もちろん、あの物語の時代よりも後の時代にわたしは生を授かったわけですから、あの通りではないのですが、街の感じが本当に懐かしくてたまらないのです。
 そして、幼稚園の年中さんあたりで、今も住んでいる静岡県某市へと引っ越すわけなのですが、幼稚園のころが人生で一番のモテ期でした。それから、あそこまでモテたことはないのです。最高にモテたあの頃、わたしは幼稚園で毎日何をやっていたかと言いますと、おままごとです。もうお分かりかもしれませんが、女の子と幼稚園がある日は連日おままごとをしていたのです。そして、二人の女の子に挟まれて二人から「大きくなったら結婚してほしい」とせがまれていて、熱烈なラブコールを受けていたのです。それは、それは幸福な毎日だったろうと思います。でも、わたしはそのおままごとをしていた様子をほとんどぼんやりとしか記憶していなくて(仕方のないことかもしれませんが)、母から「幼稚園のころは女の子二人にに囲まれていたよね」と言われてそうだったことをまるで初めてかのように認識するに至ったという次第なのです。
 そして、某市に引っ越してきたわたしでしたが、それからは特にモテることもなく現在にまで至っているという感じです。
 引っ越してきたわたしは地元の公立小学校に入学しました。と、そこで1年生の時、強烈な担任に受け持たれてしまいます。まさにボスザルのようなその先生と呼ぶこともふさわしくないような独裁ぶり支配的な問題ありの学級運営によってわたしを含む子どもたちが傷つけられたのです。わたしはいまだにその後遺症で人に物を借りることが苦手ですし、(人と物の貸し借りをすることを「小さな親切、大きなお世話」とその教師は罵倒した。)人間の価値はテストの点数によって規定されるものだということを頭の中ではもう否定できるようになってきてはいるのですが、それでも深層心理的なものとして刷り込まれてしまっているようで、どこか条件付きの承認を小さい頃から教え込まれたようで、それが今のわたしの自己肯定感の低さのベースを形成しているのではないかと思ったりもします。
 「承認されるためにはよい子でいなければならない」と言語化こそできなかったものの、要するにそういうことではないかと感覚的に感じていたように思います。両親もわたしがテストでいい点を取ったり、学期末の成績表でいい成績を取ると大変喜んでくれましたので、わたしは夢中になって勉強をしました。勉強が楽しいと言うよりは承認を得るためです。承認を得るために勉強を頑張ったのでした。
 小学生時代では同級生と話をするよりは、担任の先生と話をする方が好きでした。おそらく脳の発育が良かったからでしょう。こういう言い方をするのは良くないかもしれませんが、同級生が子どもっぽくて話をしていて楽しくなかったのです。(自分も子どものくせにませたガキですが)だから、小6の時に出来た親友は本当にませた自分と似たような人物でした。それくらいだったからつり合えたのでしょう。
 そして、中学校に入りました。もちろん絶好調です。生徒会活動こそしませんでしたが、勉強、部活、合唱と毎日朝から晩まで猛烈に活動し続ける精力的な日々を送りました。まさに優等生。人生、頑張れば何でも思い通りになるとすら思っていたくらいでした。とにかく頑張る。そして成功する。また頑張る。もっと成功する。成功の階段を駆け上がっていました。
 そうして優等生だった当時のわたしの将来の夢は弁護士または声楽家になることで、どちらにしろバラ色の人生が目の前に広がっているように思えたのでした。
 が、人生はそんなに甘くはなかったのです。高校は県でも有数の進学校に合格して入学したのですが、全く勉強についていくことができなかったのです。勉強ができるということを自分自身の価値にしていたわたしは本当に荒れました。当時、もしも精神科の扉を叩いていたらきっと何らかの(おそらくうつ病)診断がされていたことでしょう。授業中窓際の席だった時に、たしか3階の教室だったのですが、「ここから飛び降りたら楽になるのかな」などと真剣に思案していたくらいなのです。あ、あぶない。今思うと病んでいたと思います。
 で、高3になり受験生になったもののやる気は相変わらず起きなくて無気力な日々を過ごしておりました。父親が受けろと言うのでセンター試験と静岡大学は受けたのですが、もちろん不合格でした。センター試験なんてほとんど鉛筆コロコロでしたからね。センター試験の結果が自宅に送られてきて2割くらいの得点率でした。まぁ、そんなもんだろうと納得しましたが。静岡大学なんて受かるわけないのです。足切りがあったらまっさきに落とされているくらいの出来映えです。センター試験は。箸にも棒にもかかっていません。
 それから浪人生になったのですが一向にやる気が起きませんでした。と、光がある時突然差し込んできたのです。まばゆいばかりの光でした。そうだ。福祉をやろう、と。人のために生きよう。人の役に立てる人間になりたい。それに福祉系の大学だったら、偏差値は低くてもいいし、数学も必要ないし、あの大嫌いな古典もやらなくていい。(福祉系の大学入試は現代文だけなのです。)現実的な話としてこれはいけるんじゃないかと目の前がパーっと開けてきた時のことを今でも鮮明に覚えています。
 そして、福祉系の大学へ進学することを決意したわたしは2校受験して両方合格することができたのでした。となれば第一志望の大学に入学です。宮崎へ行くことになりました。新天地、宮崎。いざ宮崎へ。
 わたしが行った福祉系の某大学は勉強が嫌いな人が集まってきたような学校でした。だから、甘い非常勤講師の授業ともなれば、授業の始めから最後までひたすら私語をしている始末なのです。必修科目の厳しい教授や助教授の前ではいい子いい子しているくせに、なのです。そんな学校の雰囲気がわたしはたまらなく嫌になってきたのでした。さらに学生が三流ともなれば、先生も三流です。はっきり言って頭が悪いのです。ただ社会福祉の現場を数十年やってきただけの人が教授になっていて牛耳っている。その教授がまたくそ面白くもないひどい授業をするわけです。さらに同じ話ばかり持ち出して時間をやりくりしようとしている。それって毎月授業料払っている学生を馬鹿にしている話だと思いませんか? 
 さらにわたしは授業を聞きたかったのに先生が私語をしている学生を注意しようとさえしない! やる気ないでしょう!! そうした三流大学の醜態を目にするにつけ「授業料返せよ!」と言いたくなってくるわたしなのでした。
 三流の学生に三流の教師の三流大学。わたしが三流の人間なのだから仕方がないと思いつつもやり切れない思いがするのでした。
 極めつけは、吃音で実習が不安だというわたしに対して「この前普通に話せてたから大丈夫だよ」と講師が一言。お前は吃音のことをなーんも知らんくせにあたかも知ったかぶりして偉そうに大したことないでも言わんばかりのことを言う。それってどうなんだよ。お前、何様なんだよ。怒りがこみあげてくるわたしなのでした。
 さらにわたしに助言だと思ってか、こんなことを言ってくるような講師もいました。「あなたは吃音にとらわれているんですよ」と。この講師がわたしよりも重度の吃音とか、吃音ではなくても重度の障害を持っていてこの言葉をかけるのならまだ納得できるのですが、この講師はこう言った上、さらに「わたしが太っていることとあなたが吃音であることは同じようなことなんだよ。だから、それにとらわれずにいられるかどうかが重要なポイントだと思う。」みたいなことを言ってくるわけです。福祉の人間が、しかも福祉を教えている人間がここまで思いやりのないデリカシーのないことを言うのです。
 結局わたしはうつ状態になり、2年で大学を中退したのでした。
 それから30代までの間、本当に苦しい日々を過ごしました。精神疾患との苦しい闘病生活が続き、入院も3回ほどしましたし、人生が嫌になって放棄しようとしたことも何回もありました。
 そして、待望の受洗。その感動については旧ブログに書いた通りです。
 わたしのブログは受洗少し前から始まり、受洗、そして現在に至るまで書き綴ってきています。
 このブログを通して、読んでいただくことを通して、少しでも読者の皆様の人生が豊かにと言うのは少々オーバーかもしれませんが、何か感じ取っていただけましたら幸いです。文章は人を幸福にすれば不幸にもする。だからこそ、幸福に寄与する文章を書けたらいいなと思っているのです。

 このブログはわたしの人生の大切な一部です。そんな大切なものを皆様と共有できますことを光栄に思っている星大地なのでした。以上、長くなりましたがこれで自己紹介を終わらせていただきます。

 星大地

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