時々、むしょうに不安になってくる時がある。運動不足による不安障害なのだろうか。詳しい原因は自分でもよく分からない。けれども不安になってくるのだ。
何が不安なのか。祖母に先立たれること。そして、猫に先立たれること。母に先立たれることが、不安だ。
今のわたしの目にはすべてが錆び付いていき朽ち果てていくイメージのようなものが見える。すべてが終わり、終局を迎えている様子が。
何も最後の審判の時のことを想像しているわけではない。ただ、まだ見ぬ祖母との別れが、猫との別れが、おそらく最後に母との別れがたまらなく寂しいのである。寂しいと言うよりは心の底から悲しいのだ。すべては終わっていくのだ。何かそう考えると、無力感、無気力感に襲われる。
みんな死んでいく。わたしよりも先に死んでいく。先立っていく。一人にしないでよ。置いていかないでよ。そんな思いに駆られ始めるのだ。
どうしたらいいのだろう。みんな、家族のみんながわたしを置いて先立っていくのだ。新しい家族を作ればいいんじゃないか。でも、そういう問題ではない。そういう次元の問題ではない。
何が不安なのか。やっていけるかどうか、というのが不安なのだ。一人になってやっていけるかどうか、ということが。
かなり気弱なことを書いているのは自分でも分かっている。でも、不安なのだ。
何が不安なのか。やっていけないんじゃないか、ということが不安なんだ。とても不安なんだよ。
「何とかならない? きっと何とかなるよ。無責任なようだけど、きっと何とかなるよ。」
不安だと語る母にいつもわたしが言っているセリフだ。
「何とかなるよ。だから、大丈夫だって。」
こんなことも言っていると思う。
不安とは先が見えないからなるもので、人間にとってごくごく自然なこと。でも、それが高まりすぎるといろいろと支障を来すようになってくる。
何とかなる。何とかならないと思ったこともならなかったなりに何とかなっているのだから、今こうして何とかなっているわけで。
母にかけている言葉をわたしにもかけてあげよう。「何とかなる。だから大丈夫。」
そう思わないと不安に押しつぶされそうになる。単なる気休め? いやいや、星の経験則から来ている奥義です。
未来がどうなるか分からない。ということは、バラ色かもしれないし、地獄かもしれないし、それはなってみないと分からないってことだよね? つまり、その時になってみないと分からない。言うなれば、出たとこ勝負なのだ。逆にだから面白いとも言える。わからないがゆえの面白さである。
未来が人間に分かっていたら何にも面白くない。ただ、予定された通りに動いていくだけになるのだから、何にも面白くない。
少なくとも、人間に自由意志があるかどうかは分からず、仮になかったとしても、当本人たちは自分の意志でやっていると思っているのだから、不足は何もない。上等なのである。未来はもしかしたらもうすでに神様によって確定されていて、それをわたしたちはなぞっているに過ぎないのかもしれない。それなら、それでもいい。わたしたちがそれを動かせているという実感が伴っている状態で生きていくことができるのだから。重ねて、上等だと言いたい。
わたしに待っている未来はどんな未来なのだろう。わからない。でも、わからないということが今はかえってわくわくする。
さっきの冒頭の「不安なんです」とはえらい違いじゃないか。
ええ、まあ。人間は変化していきますからね。だから、人間は面白いんですよ。
10年前、わたしは自分がクリスチャンになっているだなんて想像すらしなかった。未来は分からない。本当、分からないよ。だから、面白い。それゆえに面白い。
人生という壮大なゲームがこれからどのように展開していくのか、楽しみだ。
アップダウン、アップダウンてな感じでわたしの人生は続いていく、のであった。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。