最近、神秘神学の本を読んでいるわたしである。読んでいるといろいろな人が登場してくる。その登場してくる人たちがすごい人たちばかりで自分がつまらない人間のように思えてくる。
まだ全体像が見えるところまでは到達していないのだけれど、東方正教会の聖人に特に惹かれる。
わたしはプロテスタントのクリスチャンだから西方のキリスト教を信奉している人間だ。だから、東方にはあまりなじみがなかった。けれども、彼らのことをざっくりとではありながらも学び、知識を深めていくうちに唸らされてしまったのだ。
すごい。何か聖なるまさにホーリーなのである。とにかく神秘的でさえあるのである。
それに引き換え、わたしは一体何なのだろう。信仰は他者と比較するものではなく、自分と神様の関係だということは分かっているのだけれど、彼らのあまりの聖性ゆえに自分が薄汚く汚れに満ち溢れているように思えてくるのである。わたしは唾棄すべき人間だ。汚い。汚い。まるで肥溜めの中でのたうち回っているようなそんな人間なのである。「それって人間らしくていいじゃない?」とはとても思えない。
わたしは、そう。聖くなりたい。どこまでもどこまでも聖くなりたい。それでその清らかさで神様のもとに召されたい。そんなことを思う。
となると修道院へ入って現世の享楽をすべて捨て去らなければならないということになりそうだ。でも、できない。わたしにはできない。現世の刺激は刺激で捨て難い魅力を放っていて、わたしはそれらをゴミ箱の中へと捨てることができない。
Googleで検索すれば一生かかっても見きれないほどのアダルト動画が用意されている。何という誘惑なのだろうか。そして、それに負けて情欲のとりことなっている醜いわたし。
「もう嫌だ。こんな汚れた世の中、捨てるんだ。捨てたいんだ。」と思う時もある。けれども、また気が付くとネットの成人向け動画を視聴しているわたしなのだ。成人にはなったけれど、聖人という意味では成人になれていない。少々分かりにくい言い方かもしれないけれど、聖性という点においてはわたしは赤子のようなものではないかと思うのだ。聖人と崇められている人たちを大人とすれば、わたしは赤子に過ぎない。いや、下手をすると受精卵か未熟な胎児レベルでしかないのかもしれない。それくらいわたしは彼らと比べて未熟な存在なのだ。
20年とか30年も禁欲をしている彼らの心の状態を想像することは、3日の禁欲であっても激しい苦痛を覚え難しいわたしにはまったくできない。何か超人的というか、別の次元に突入している。生きている世界が違うようにさえ思うのだ。
少なくとも言えることは、アダルト動画を見ているような聖人はいないだろうということだ。そんな聖人、何か嫌だ。嫌に決まっている。
ここで素朴な疑問がわたしの中で浮かんでくる。神様はなぜ人間の性欲をお造りになられたのか、ということだ。
「あんたねえ、そんなこと言うけど、人間、性欲がなくなったら人類滅びちゃうよ。」
もっともな指摘ではある。でも、わたしはそのことに一歩踏み込んで問いたいのだ。なぜ性欲がなければ人間を増やせないように神様は人間をお造りになられたのだろうか、と。わざわざ、性とか生殖とか厄介になりそうなものを用意しないで、神様ご自身が人間を増やしたい時に無からポンっとその度に創造されていても良かったんじゃないか。そんな理屈をこね回す姑息なわたしなのである。
「あんたねえ、性欲を敵視し過ぎなのよ。性欲っていうのはねえ、いや性はね、人間に生きる希望と喜びと充実感を与えるものでもあるのよ。だから悪いものじゃないの。素晴らしいものなのよ」
わたしにこうして「あんたねえ」と話しかけてくる子どもが4人くらいいる仮想の肝っ玉母さんによれば、わたしは性というものを嫌悪し過ぎているとのことのようだ。
主イエスだって「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。・・・天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:11,12)と言われているではないか。
わたしが禁欲できないからと言って気落ちしなくてもいいのである。そうか、できる人だけでいいのか! 東方の聖人たちはもしかしなくても恵まれた人たちではなかっただろうか。あぁ、御言葉に救われるような思いがする。
アダルト動画を見ることの是非はともかくとして、禁欲することができない自分を責め立てる必要はなかったのだ。
別の言い方をするのであれば、神様がわたしのためにお造りになられた性的欲求である。他人に迷惑をかける性欲の発露はダメだけれど、この与えられた性というものを大切にしながら生きていくことは尊いことではないのか。何か重い心のおもしが幾分か取り去られて楽になったような、言うならば解き放たれたような感じがする。
聖人。なれる人はなればいい。なりたい人はなればいい。でも、なれなかったとしても、それも神様の御計画であり御心ではないだろうか。
クリスチャンをやっていると自分の俗悪さに吐き気がする時がしょっちゅうある。教会行ってアーメンしてるけど、全然聖くないじゃないか。でも、こうも言える。聖くないからこそ、罪にまみれているからこそ、泥沼の中を転げ回っているからこそ、悲惨だからこそ教会へ行くのだと。もしわたしが既に聖人になれているとしたら、教会なんて行く必要、微塵もない。罪人だからこそ教会へ行くのである。
死ぬまで罪人のわたしである。でも、だからと言って自分から罪を無尽蔵に増幅させることもいただけないことだと一方で思う。アダルトコンテンツとは適度な距離(?)を取りつつやっていけたらと思う。って中途半端な結論に落ち着いたわけだが、完全に聖くなれないのが人間なのである。と言い訳をする聖くないわたしなのであった。肩の力が抜けていて、力みがなくていいと言えばいいのかもしれないが。
緊急事態宣言が発令されてからというもの、うちの教会も公開礼拝は中止して家庭礼拝を、ということになった。今まで礼拝を守れていたことがいかに恵みであったかを噛みしめる日々である。教会恋しいなぁ。でも、またきっと再開される。だから、大丈夫だ。コロナはじきに収束する。だから、大丈夫だと信じたいし信じている。
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1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/元ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。