今日、聖書研究会で学んだこと(11月24日)

キリスト教エッセイ
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 わたしが関心を持っていること。そして持ってきたこと。それは人間はどこまで自由なのか、というシンプルな問いだ。これが難しい。何でこの問いにわたしがこだわっているかと言うと、そこから責任の問題が発生してくるからだ。
 わたしたちが何か悪いことをしたとする。すると、日本の場合、警察に逮捕される。そして、牢屋へと引き渡される。服役して罪を償う。それから出所するなり、一生出られないなり、ともかくその後がある。
 責任って何なんだろう。自由に付随して生じてくる根源的な問題で、これって重要なんじゃないかって思う。わたしたちは自分で何かをしたら、それはもうその人の管轄であって、その人の責任とすぐに判断する。だから、逮捕するなり拘置するなりしてその人の自由を奪う。それだけのことをしたのだからと罰するのだ。しかし、何もわたしはその営みに反対したり、批判したりするつもりはないのだけれど、よくよく考えてみると責任という概念が曖昧だということに気付かされる。で、責任が発生するためにはその人が自由でなければならないんだ。その人が自分の意志で自由に選択できて、その選択の中で悪いことをしてしまった。そんな時にその人を罰したり裁けるのだ。けれども、その人が自由でなかったらどうだろう。何らかの事情があって、その人が自由に行動できない。そんな時には刑法では罰しないことになっている。精神障害のある人が場合によっては無罪になったり減刑されるというのはそういう話で、それは理にかなっている。わたしが言いたいこと。それはもしかしたらわたしたちは自由ではないのかもしれない、ということ。
 今日、聖書研究会で取り上げた内容で一番印象に残っているのが、仏教では因果の法則(因縁果の法則)が支配していて、自分の意志だけではなくて、もっと昔の話、それも万物の始まりよりももっと前の話にまでさかのぼるということ。そんな昔から現在までのわたしにつながっていく悠久の歴史の中で、自分が前世でやったこととかが今のわたしの行動や思考や決断などに影響している。複雑な魑魅魍魎と言ってもいいくらい複雑な因縁によって、今のわたしというものは織り上げられている。だから、わたしが今する決断やら何やらの行いは、今のわたしだけによるものではなくて、長い長い自分史(前世含む)の賜物なのだ。
 で、改めてわたしは問うのだ。本当にわたしは自由なのですか? 今のわたしがやったことには責任を負う所存ではありますけれど、本当にわたしにはその責任があるのですか、と。これは難問だ。誰かが犯罪をしたとして、その原因が前世のたとえば鎌倉時代の何年何月何日にやったことの影響を受けて、その影響下でやらざるをえなかったんです、などという話になりかねないからだ。もちろん、そんな鎌倉時代の細かな話など歴史書にも載っていないし、そんなこと分かりはしない。しかし、仏教的に考えるのであればどんな行為や思考や決断もすべて過去からの影響を受けている(と断定することはできないけれど、否定することもできない)。だったら、今日取り上げられた運命論とか決定論とかになるんじゃないか。もう人間には自由などなくて、ただプログラムされたように、この場合で言うなら因縁の呪縛からは逃れられないんだってね。
 運命論ならびに決定論と自由意志論、自己責任論が鋭く対立している。この対立、どちらが正しいのだろう。あるいはその中間が正しいのだろうか。考えてみてもこのことには答えが出なくて、いつも宙ぶらりんのままわたしたちは生きている。いや、はっきりしないけれど生きていかざるを得ないんだ。だから、最も現実的な自由意志論および自己責任論でこの世の問題をすべて処理しようとするんだ。でも、考えてみれば「魔が差す」という言葉もある通り(この言葉は牧師が説明する時に使った)、自分で自分のことをすべてコントロールすることなんてそもそも無理なことなんだ。どこまでコントロールできているのか、何%くらい自由意志で制御できているのか、それは分からないけれども、ともかく100%自分の意志です、なんてことはない、というのが今日のお話。興味津々なわたしは一体どれくらい人間が自由なんだろう、っていうことが気にかかるんだけれど(それによって責任の度合いが変わってくるからね)、その何が事実なのか、というのはヴェールに覆われているように思う。でなかったら、この自由意志があるか、それともないか、みたいな対立はもうすでに解消しているはずだし、議論が平行線のまま二つの立場があり続けるなんてことはない。でも、現にこの両極端な二つの立場は未だに膠着状態を保っている。
 何かをする。みんな必ず毎日生きていくためには大きなことから小さなことまで何か行為をしている。それも無数の行為をしている。が、それがどの程度自分の意志でなされていることなのか、と問われると途端に答えに窮する。わたしが右手を挙げる。それはあなたの意志なのですか、と聞かれれば常識的には「そうです」と答える。しかし深く考えていくと、前世の因縁なのかもしれないし、昨日の因縁なのかもしれないし、ともかく答えが出ない。もっと言うなら、キリスト教的に考えるのであれば、神様の力の影響だって受けていると思うのだ。これは100%神様の力によるものです、ということは珍しいかもしれない。けれど、少なくともゼロではないんじゃないか。だとしたら、これは神様によって動かされてやったことなんですから多目に見てくださいとか、見逃してください、みたいな話にもなってくる。で、その行き方がもっと極端になるとこの世はすべて100%神様の摂理のままに動いていて、一挙手一投足すらすべて天地が創造される前から何が起こるか何をするか決められていたんだ、となる。あげくの果てには、みんな自由なんてものは1ミリもなくて、神様の思うがままに操られているだけの神様のロボットなんだ、ということになってしまう。
 こ、これは神のみぞ知る領域ではないのかともわたしは思う。人間がどの程度自由なのか。それを知るのは神様だけなのかもしれない。もしかしたら運命論や決定論が事実であって正しいのだとしたら、わたしたちは神様の単なる操り人形で決められたことを行い、決められた言葉を発するようにされていて、その通りに動かされているだけなのかもしれない。あるいは自由意志論が正しくて、人間はすべて自分の行為については自己責任を負うべきであって、一分も他力的なものの力や原因などが働く余地などないのかもしれない。などと思いきや、その中間が真理だった、なんていうこともあるかもしれない。半々だとかね。
 つまりこのことについてははっきりとしたことは人間には分からないのだ。当たり前のこと。ありふれたこと。そのごくごく普通のことこそ難問だったりする。難しい、というか分からん。
 今、わたしはこのブログの記事を書いている。今までの話に照らし合わせれば、これってわたしの意志なのかな、それとも違うのかな、という話になる。まさに迷宮に足を踏み入れたとはこのことで、もっとも身近なところにこそ難所は待ちかまえているのだ。
 本当は今日の聖書研究会ではいろいろな話があったのだけれど、それらを割愛して本当に真正面からわたしに迫ってきたことだけについて書いてみた。なので、中立的で公平な集会の感想かと言えば、そうとは言えないかと思う。でも、これはこれでいい。最も刺さったこと、刺さってきたことを熱い口調で書くことができたので良かったと思っている。
 Aさんが右手を挙げました。さてこれはどの程度Aさんの意志によるものなのでしょうか? うむ、難問だ。

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