わたしには友だちがいない。もう長いこといない。いない状況で、本当に細々とした限られた人たちと関わって生きてきた。そう、友だちがいないから、時折むしょうにむなしく、さびしくなる。そんな風に最近、自分のことを見つめつつ、解釈していた。
あまりにも人間関係がなさすぎるから、もう少し開拓してみよう。そう思って、自分が住んでいるところの地域活動支援センター、通称、地活へ病院のワーカーに相談してから、実際行ってみた。
で、今日書きたいのは、市内に数カ所ある地活のうちでも行ってみて失敗したというか、本当にうんざりしたという話だ。まぁ、うまくいかなかったという話をここに書き連ねてみようと思うので、つまらないかもしれないけれど、何か面白いと思ってくれる人がいたり、参考になる人もいたりしてくれるかもしれないので、恥をさらすことにしたい。しばしお付き合い願いたい。
わたしが行ってきたその地活は初めてのところだった。最近、ネット断ち生活を始めてからというもの、初めて入るお店で店員さんと話をすることができるようになったので、そんな感じで思い切って、初めての場所へと飛び込んでみたのだ。とは言っても、やっぱり初めての場所というのは緊張する。どんな人が待っているのだろうと扉を開ける時には少し心臓がドキドキするし、よくある表現を用いるなら、期待と不安が入り混じっている感じだ。
「とにかく、GO!!」と地活の重い扉を開けたわたし。やはり、初回ということで、向こうはこちらの情報が欲しいらしく、個室で面接をした。いろいろ聞かれた。聞かれたけれど、ちゃんと答えた。嘘などはもちろんついていない(当たり前だろ)。
が、何か分からないけれど、わたしの直感が「おや?」とか「大丈夫かな?」とほんの少し反応していた。その初回のスタッフとの面接の段階で、何かが起こりそうな予感がしていたのだった。
そのスタッフの人、言っていることがところどころおかしいし、表面上は優しい感じなんだけれど優しくない感じがした。
普通、それも特に精神障害のある人の場合には、新しい場所へ行くことは本当にきついし、相当思い切らないとできないから、こうして一人で来たことだけでも「頑張ったね」と言ってほしいものだ(「お前は小さい子なのかよ」と言われてしまいそうだけれど)。それをそのスタッフの人は、わたしがアポな しで突然来たことについて、「スタッフの人数などのこちらの事情もあるから、電話で連絡して来てほしかった」と言う。たしかにもっともだし、正論だとは思う。世間知らずのわたしは何も連絡もせずに突然来た。来てしまった。失礼と言えば失礼だ。でも、もうこうして来てしまっていて、そのスタッフの前にわたしはこうしているのだから、そのことについてとやかく言っても仕方がないし建設的ではない。「こうしてほしかった」などと言われても、もう過去は変えることはできない。もちろん、「これからはこうしてほしい」ということだったら分かるし、言うことに意味があるとは思う。けれども、過ぎたことをとやかく言われても、こちらが責められているようで、きまずく感じるだけで、何か気持ちが重くなってくる。
それから、聞いてくることにほとんど意味をなさない、どうでもいいようなことがちょいちょい混じってくるし、渡そうとしている紙に書いてあることなんかも、いちいち読んでくれなくても少し読む時間をもらえれば問題ない。そもそもわたしは地活という場所がどういう場所なのかということも分かっていたから、そういう分かり切った説明をされてもだるくて時間を取られるだけでしかなかった。
その説明の中でも明らかにおかしいというか、訳が分からなかったのが、地活という場所は本来、障害がある人が日中、そこで好きな時に来て、好きなことをして自由に過ごして、好きな時に帰っていいという場所であるはずなのに、なぜかそのスタッフが「はじめのうちは好きな時間に来て好きな時間に帰ってくれていいけれど、仕事などをするためには決められた時間の枠にいなければならないから、慣れてきたら同じ時間に来て同じ時間に帰るようにしてもらう必要が出てくる」とわたしに言ってきたことだった。これ、意味が分からない。地活は病院のデイケアじゃないでしょ。病院のデイケアだったら、精神科の治療の一つとして、決められた時間にその場所に来て、いて、また決められた時間に帰るということが必要になるのは分かるし、そういう場所だろうから納得がいく。また、地活は就労でもない。障害者が働く作業所の就労Aや就労Bは作業をして働くことによって時間ごとに工賃や賃金が発生するのだから、決められた時間に来て、いて、帰る必要があるのは当たり前のことだ。でも、地活で、いわばサロンのような場所で、「決められた時間に来て帰るように」と命令までいかなくても、やんわりと言うだけでも指導的すぎる。いや、そもそも地活の定義からしてその人は誤解しているのではないか。まぁ、もしかしたらわたしの言っていることのほうが間違っているのかもしれないので、あまり強気にガンガン言うことはできない。しかしながら、あくまでも推測だけれど、国としては地活から就労へつなげていって最終的には自立してもらいたいのだろう。つまり、自立への第一歩。自宅にひきこもって昼夜逆転した乱れた生活を送りがちな精神障害者を真っ当な人にしたい。真っ当ににして仕事をしてもらって、できることなら国を発展させるために税金をたくさん納めてくれるようになってほしい。障害年金で養わなければならない人ではなくて、逆にそういった仕組みを支える側になってほしい。そんな意図が透けて見える。
そういうわけで、地活は同じ時間に来て同じ時間に帰る必要がある場所だという謎の発言にわたしは翻弄されていた。そして、そのスタッフはわたしにしきりに仕事をして働くことについて聞いてくる。それが何か、いや、明らかに(?)自分がダメな人扱いされているようで嫌な感じがした(社会的にはわたしは何もできていないダメな人でクズだけどさ)。でも、「わたしは人間関係を新しく開拓してお友達を作っていくんだ」と特に反論などもせず、その不快な不満を飲み込んでおくことにしたのだった。
が、それはこれから起こることのほんのさわりの序章のような、いわば予感程度のものでしかなかった。そこからだ。そこから、一言でいうならヤバい状況になっていった。
わたしが行ったその日のその時間はフリートークということで、みんなで自由に楽しくお話をする時間だった。これは楽しいトークになるだろうなと期待した。が、これがわたしにとっては地獄そのものだった。おいおい、地活のみんなでお話しして、それが地獄って何なんだよ、と普通の人は思うだろう。でも、地獄だった。ほんと、地獄。
初回の面接を終えたわたしがみんなのお話に参加しました。と、とりあえず様子を見ようと思ったわたしは最初、みんなの話を聞いていた。けれども、聞けども聞けどもつまらない。全然面白くなくて、退屈で、どうして他の人たちがこうしてここまで面白くもない話をしていられるのかが理解できないくらい面白くない。どうして「つまらない」と言って帰らないのだろう? この人たち、宇宙人? 異文化の人? そう思うくらい言っていることがつまらなくて、くだらなくて、しょうもなくて、そのみんなが笑っているポイントも全然わたしには笑えなくて、「何言ってんの? その話のどこがウケるの?」という感じだった。汚い言葉を使うことを許してもらえば、クソどうでもいい本当つまんない話を延々としているだけ。「あの、雑談ってこんなにつまんないものなんですか?」と新発見してしまったかと思うくらい、わたしの人生においてワースト1のつまらなさだった。逆に、どうしたらこんなにつまらない話ができるんですか、と聞きたいくらいつまらない。わたしはテレビやネットの動画を見ていないですけれど、今のテレビや動画に出ている人たちはここまでつまらない話をしているんですか、と言いたくなってしまう(そんなことはないだろうけれど、その可能性あり?)。何かこのつまらない感じは、昔、公民館で参加した講座に来ていた人たちと重なるところがある。その講座に来ていた人たちは、その講座のテーマについて自分でネットの動画を見て勉強している、とのことだったが彼らがウケるポイントが本当、異文化そのものだった。「そのことのどこが面白いの?」とその時もまったくついていけなかったのだ。
話がつまらなくて、全然面白くなくて、というだけだったらまだいい(それはそれでまた罪深いものではあるけれど)。しかし、それでは地獄にはならない。では、何が地獄だったのか? それは彼らの話がわたしのコンプレックスを刺激して、まるでナイフで心が切り刻まれるかのような内容だったからだ。彼らの発する言葉の一つひとつが、ひと切り、ふた切り、み切りとわたしの心を切りつけていく。そのたびにわたしの心からは血が吹き出す。そして、そうされればされるほど、彼らへの怒りがこんこんとマグマのように沸いてきて爆発しそうになってくる。「お前ら、調子に乗ってんじゃねえよ」と髪の毛をつかんで部屋中を引きずり回したい程度ならまだいい。それがだんだん殺意を感じるレベルにまで高まっていく。やばい。やばい。明らかにこれはやばい。夏の花火大会でイケてる感じの中高生の男女の6人組にわたしが抱いた感情と近い。いや、ほぼ同じと言ってもいい。これは下手をすると手を出してしまう。ののしって罵声を浴びせて暴力をふるって警察沙汰。で、逮捕~、になってしまう。うーん、取調室でカツ丼だけは食べたくない。くれぐれも言っておきますけれど、わたしは普段は温厚で物静かな優しい人間ですよ(ここで但し書きしても説得力ないけどね)。
参加者たちの名前の由来。有名なアーティストから取ってこの名前を親がつけてくれた。こういう名前をつけてもらいたかった。名前にこの漢字を入れてほしかった。飼っている犬の話。犬が過食気味で困っているらしい。犬の種類とその特徴について。家の床に断熱材を入れるとか入れないという話。お掃除ロボットのルンバの話。自分はお父さん似だと言われるのだけれど、絵がうまいところが似なかったのがどうだとか、女の子はお父さんに似るとかどうとか。美容院の話。美容院でいろいろと追加メニューをすすめられると断れなくて、ついつい料金が高くなってしまう云々。数独が好きでどうこう云々。最近、旦那がこうこうこうで、奥さんがこんな感じで、子どもの名前をつける時に本当悩んで悩んで大変だった云々という話。行きつけのお店があって、そこでよく外食をしている、という話。外へ出ると、ついついお買い物をしてしまって結構な金額になるとか云々。大学時代、友だちとバカなことをやって酒でどうこうしてこれまた云々。
え~っと、そういう話いらないですし、クソどうでもいいですし、関係ないですし、くだらないですし、全然面白くないですし、全部ではないですけれど、ほぼほぼわたしの地雷を踏んでいます。踏まれまくって爆発しまくってます。血が流れています。どうしてそこまでしてわたしの地雷を外さずに踏めるの、というくらい、おかしいくらいに踏んでいます。どうしてそこまでわたしを傷つけることができるの、というくらい傷つけています。
興味がないどうでもいい話を延々と聞かされましたけど、さらに言わせてもらえば、うちはルンバを使えるほど広い家じゃないです。しかも、知り合いが猫を飼っていて、ルンバを使うとルンバがその猫の毛でつまるとか聞いていて不快です。父親がどうこうみたいな話をしていましたけれど、うちの両親は離婚していて、わたしは父とはそれから音信不通で連絡を一切取っていません。わたしから連絡しませんし、もちろん父からも葉書一つ来ません。それから父は再婚したらしいですけれど、子どものわたしにも一切そのことを知らせる便りなどもありません。ですから、わたしにとっては父不在でいわば死んだようなものです。お父さん似がどうこうと楽しそうに言っていられるのは、その人が父親と良好な関係を現在、築けているからであって、そういう話をされると本当ムカつきます。友だちやパートナー、そして自分の子どもの話もわたしにはいませんから、聞いているとこれもまた不快そのもので気分が悪いです。ノロケ話にしか聞こえません。「何なんだよ。調子に乗ってんじゃねーよ。何様?」と思います。
その地活のフリートークに参加していた人たちはきっとわたしよりも生活レベルが高い人たちなのだと思う。彼らは彼らでまた精神障害があってそれなりに大変なのだろうけれど、わたしよりもいろいろな面で恵まれている人たちでそれなりの生活を送れている。彼らが何の悪気もなく普通に言葉にしていること、つまりそうした内容はわたしにとっての普通ではなくて、ほとんどすべてがわたしが持っていないものだ。ちょっと違うかもしれないけれど、日本の最高学府である東大の人たちが口走ってしまって一般の人たちから反感を持たれて反発される言葉に次のようなものがある。「東大生でもバカな人はいるよ」。持っている人がつい何気なく言ってしまう言葉をコントロールするのはかなり難しいことで、どんなに注意深く用心していても、ついポロっと出てしまう。見下すつもりはもちろんないだろうし、悪意もないとは思う。でも、ぽろっと出てしまう失言。そういうポロリをなくそうと芸能人などの表舞台に立つ仕事をしている人たちはものすごく神経を使っていて、むしろ普通の人と自分が同じだということを必死にアピールしようとする。たくさん稼げていてお金があり、高級な物も好きなだけ食べることができるはずなのに、スーパーで売っている100円のうどんが好きだと公言して庶民派であることを強調する。
でも、意外かもしれないけれど、わたしがその時に一番ムカついた人は、そのフリートークに参加していた地活の利用者ではない。そうではなくて、そこでいわば音頭を取っていた進行役の地活のスタッフだったのだ。って、一番問題があるパターンじゃないですか。地活の利用者よりもそこのスタッフに腹が立ったってどういうことよ、とこれを読んでいる人は思うことだろう。でも、実際そうだったのだから仕方がない。そのスタッフ、いやスタッフと呼ぶだけの価値もないとわたしは思うから「男」「その男」「あいつ」などと呼ぶことにしようか。
わたしはああいう男が一番嫌いだ。吐き気がするとか反吐が出るとか、そういうレベルではなくて、激しい殺意を感じるくらいに嫌いだ。もう、あいつがいると思うだけでその地活には行きたくない。どうしてそこまで嫌いかと言うと、スマートで、要領が良くて、都会的で、垢抜けていて、イケている感じで、ペラペラ話ができて、女性の扱いに慣れていて、スポーツもできそうで、それなりに経済的な余裕のある家庭で育った感じで、ということころが鼻持ちならないからだ。でも、それ以上にムカつくのが、自分がスタッフであって進行役なのだから黒子まではいかなくても、それなりに出過ぎないようにして、話しにくそうな人や話すことが苦手な人に話をできるだけ振ったりしてみんなが楽しく話をできるようにサポート役に徹しなければならないのに、自分の話をペラペラペラペラと気持ちよさそうに長々とするところだ。で、その参加者の中でも割合裕福そうな、その男と波長が合う参加者にばかり話を振る。その様子を見ていると、「てめえらの独断場じゃねえんだよ」と言いたくなってくる。そうなってくると、その男もそれなりに持っているから、持っている者同士のその2人のトークばかりになっていって、鼻持ちならない裕福、金持ち(小金持ち程度で大金持ちではない)トークが、リア充トークが延々と続いていく。ってか、聞いていて全然楽しくなくて不愉快だし、そもそも言っている内容が薄っぺらくて中身なんてないから、「だからそれが何?」という程度の話でしかない。昔、テレビで活躍した叶姉妹がいたと思うけれど、その言っていることがよく分からない意味不明な彼女達がもう少し(いや、かなりか?)経済的なランクが下がった感じと言ったらいいのだろうか。で、自分たちはすごく中身がある頭のいい人間だと思ってどこか勘違いしているところも似ていて、残念な感じが半端ない。
あの男が持っているものはわたしが持っていないものばかりで、あの男の存在自体がわたしの存在価値を脅かしてくる。あの男は自殺未遂とかしたことがあるのだろうか。それは分からないけれども、たぶんないと思う。何か人生をそつなく、要領よく渡ってきました。で、今もそれなりにうまくいっています。妻も子どももいます。専門職としての資格も取って仕事もうまくいっていて、いい人間関係にも恵まれていて、親友や友人もそれなりにいます。それなりに収入も得ていて、そこそこいい暮らしをしています。
ケッ!! だから何なんだよ。反吐が出るわ。反吐が。お前には哲学がないんだよ。哲学が。のたうち回って発狂して死に至るほどの苦悩がないんだよ。だから、薄っぺらで、言っていることが表面的で、チャラチャラしているだけでつまんねーんだよ(すいません。汚くののしってしまいましたけれど、すべて本音です)。
その男はわたしに3回話を振った。1時間以上もそのフリートークの場にいたのに、3回だけ。で、彼が1回だけわたしのことをほめた。何てほめたと思う? 「その髪、きれいに染まってますね」。って、オイ。オイ。オイ。最近、思い切って髪の毛を染めて茶髪にしてみましたけど。きれいに染まっているとは思いますけど。って、お前ほめるところ間違えてるだろ。バカなのか? バカにしてんのか? 頭悪いだろ。その髪の毛をきれいに染めたのは美容師さんだろ。それはわたしの手柄ではなくて、ただその美容師さんの腕を、その仕事をほめているだけだろ。何かもうことごとくアホというか、何というか。ダメだわ、こいつ。
でも、わたしはこらえた。こらえて平静を装った。そして、さすがにもう限界だと思ったわたしは「ありがとう」という言葉は言わずに無愛想な感じで「どうも」とだけ言って、その地活の建物を後にした。
帰り道、全く関係のない通りすがりの人にも腹が立つくらいムカついていた。カップルや友だちと楽しそうに話をしている人たちが恨めしくていちいちネガティブに反応していた。わたしは思った。わたしは他の人に関心を持つことができない上に、そもそも興味がない。だから、友だちなんてこの先もたぶんできない。わたしに生きている意味なんてない。もういいかな。死のうかな。ぼーっと歩きながらそんなことを考えていた。
地活へ行って死にたくなりました。わたしはダメなヤツなのでしょう。クズなのでしょう。ゴミなのでしょう。でも、今もこうしてまだ生きている。なぜなのだろう? 分からない。生きている。どうして? 分からない。うーん、分からなくてもいいし、分かる必要もないのかな? でも生きている。どうして? 死ぬのがこわいからなんだろうな。ネガティブですいません。でも、本音で嘘ではないです。
この地活へ行って、わたしは、行く前よりも調子が悪くなった。それも一時は傷害沙汰を起こしかねないほどの怒りで混乱した状態になっていて、さらに死にたくもなっていた。行くと死にたくなる地活ってどうなのよ? 一番ダメなやつじゃないの? 話にうまく入っていけない感じの人をそっちのけでほぼ放置して、自分が楽しんで長々と話をしているスタッフってどうなのよ? 何かさ、専門知識を身につけただけのクズだよ。いろいろなことを知っていて、テストでそれなりの点数を取って、資格を取っていて専門職ということになっているけれども、クズだよ。そして、そんなダメなスタッフが目の前でダメなことをしているのにそのことに気付かない他のスタッフもダメな人たちなんだろうね。おそらく、こんな感じだといろいろ問題は起こっているはず。わたしは何とかこらえて踏みとどまったけれど、自殺者や傷害沙汰の事件とかが起こってもおかしくないなって思う。ましてや、精神に障害がある人というのはすごく繊細で鋭くて感受性が豊かな人が多いから、ちょっとしたことが命取りになるよ。
20年近く前、わたしが福祉系の大学で勉強していた時に、他の先生たちとは比べ物にならないくらい素晴らしい授業をする先生がいた。わたしはその授業を受けるたびに感銘を受けていた。その当時、その先生は一介の講師でしかなくて、大学内では下っ端だった。で、その先生が言っていた言葉で今も印象に残っているのが「福祉の人は全然物事を考えようとしない。言われた通り、マニュアル通りに上から言われたことをやっているだけ。そんなんじゃダメ。もっと考えなさい」という言葉で、マニュアルのような知識を覚えるだけではダメだと事あるごとに言っていた。
その先生は大学の学科内では下っ端だったから発言力はなかった。だから、学科内で何かを決める時にはその会議には参加できない。でも、どこで聞いて知ったのか、わたしが吃音で実技の授業がうまくできずに、実習へ行くためのテストにも落ちて行けなくなった時に、その先生はわたしに一言「人を外側の見た目や様子だけで判断して決めつけるのは良くないと思う」と言ってくれた。その時の実技担当のおもな先生からは「あなたは人を受け入れることができていません。ですから、実習に行かせることはできません」とバッサリと言われていただけに、その聡明な講師の先生の言葉は心に深くしみるものだった。今思うと、自分が孤立していてまわりから浮いていて受け入れられていないのに、人を受け入れろだなんて無茶な話だと思う。わたしが授業で思いっきりどもった時、同じ学科の人たちのほぼ全員が声をあげてお笑いを見ているかのような感じで爆笑した。その時、わたしは「この人たちは敵だ」と思った。「そんな彼らに心を開いて受け入れろだと? 無理でしょ、あんた。何言ってんだよ」と多少賢くなった今だったらその当時の実技のおもな先生につかみかかっていることだろう。
歳を取って体が弱くなったお年寄りの車椅子を押して優しく接してあげたい。身体障害がある人の役に立ちたい。もちろん、その気持ちは純粋そのもので素晴らしいとは思う。でも、その一方で、わたしが吃音で激しくどもると何のためらいもなく手をたたいて大爆笑する。「お前ら何なんだよ。そういうのを偽善って言うんじゃないの?」とその当時も今もわたしの思いは変わっていない。
というか、その大学の先生でもひどい人になると、福祉大の先生のくせにわたしが自分の名前を吃音で声が出なくて言えないでいると「お前は自分の名前も言えないのか!!」とののしってくるし、他にもほとんど吃音のことについてろくに知りもしないのに「大丈夫だよ。この前、話せていたじゃないの」と安易に励ましてくる無知な先生もいたし(吃音には普通に問題なく滑らかに話せる時とそうではない時があるということさえ知らない)、その当時の担任の先生については「わたしが太っていることとあなたが吃音でどもることは同じことなの。あなたは吃音にとらわれているだけなんじゃないの?」と自分が不摂生な生活をした結果の肥満と吃音を同列に並べて「気にするな」と言う始末だったし、ま、三流大学の先生たちは基本的にアホな人ばかりでした。学生の多くがアホなら先生の多くもアホ。かく言うわたしも当時アホに毛が生えた程度だったし。
そのわたしが中退したダメな三流大学の先生たちと、今回書いている、この前初めて行った地活のスタッフたちが感覚的にふっと重なるから不思議だ。表面的には穏やかで優しい人たちのように見える。でも、それは表だけであって、本当に優しいのではない。そういう感じがしてならない。
「人を憂いる」と書いて「優しい」になる。その憂いる時にそれが心の底から憂いているかどうかというのはすぐ相手に見抜かれるし、表面的なポーズであればすぐにバレる。ましてや、直感が鋭く違和感に対しても鋭い精神障害のある人たちであれば、ごまかしは効かないだろう。嘘を見抜く力が強いとも言える。
本当に優しい人が話にうまく参加できない人をそっちのけでペラペラと自分のことを話すだろうか? むしろ、そういう人に対して優先的に話を振ってみんなが万偏なく話ができるように場を調整するのではないか。しかも、話の進行役の人ならなおのことそう心がけなければならないはずだと思う。それにみんなで集まって話をしているのだから、その時間はみんなの時間であって、特定の人たちだけが話をしているというのは良くないだろう。そう考えると、あの男のダメスタッフは論外だということは言うまでもない。
いろいろ書いてきたけれど、結局、似たもの同士がつるんでいるだけだとも言える。わたしがあの男をダメだと思う一方で、同じ人物をいいなと思う人たちがいる。どこでもそうで、波長が合って一緒にいて心地良くて楽しければそのグループやコミュニティーに所属していたいと思うものだ。わたしが彼らのしている話をクソどうでもいいつまらない話だと思ったのと同じように、彼らもまたその同じ話を楽しくて面白い話だと思っている。となると、最終的には良し悪しやレベルがどうこうではなくて、好きか嫌いかというだけのことなのかもしれない。で、わたしはその彼らと彼らがしている話が面白くなくて嫌悪した。それも吐き気がして反吐が出るくらいに激しく。
まぁ、こういうことを言うのも何だけれど、凶悪犯罪で捕まって死刑の判決を受けた男の人であっても、いろいろな人がいるもので、そんな男性に好意を寄せて獄中に差し入れをしたり、獄中結婚をしたいと申し出るような女性もいるから、世の中は多様性にあふれているなぁと思う。しかも、獄中に差し入れをする女の人が1人だけではなくて10人程度いる場合だってあるらしいのだ。となれば、このわたしにだって十分すぎるくらいチャンスはある。わたしのことを「いいな」と思ってくれる人は少なくとも10人以上はいるはずだ。ただ出会っていないだけで。
ともかく、わたしはもうあの地活へ二度と行きたくないから、あのスタッフのダメ男とも関わることは今後ないだろうし、初回で話をした利用者の人たちとも会うことはないだろう。
それでは最後にわたしから彼らに心のこもった別れのご挨拶をいたしましょうか。
「あばよっ!!!」(タレントの柳沢慎吾さん、今どうしてるんだろ? ちょっと気になる)

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。