わたしの高校時代は暗黒時代だった。勉強がさっぱりできずに落ちこぼれていて、運動もできないし、部活もやっていなくて帰宅部で、友だちも一人もいなくて、完全に孤立していていつも一人。まさにスクールカースト最底辺に位置していて、それはそれは毎日、下を向いて暗い顔をして、苦しくて苦しくて仕方がなかった。なぜ生きているのだろうと思っていて、窓から外を眺めてはここから飛び降りたら楽になるのかな、と時折考えていたくらいだった。
特にその中でもお昼の時間がつらかった。毎日、クラスメイトが机を動かして、好きな人たち同士でお弁当を食べるのだけれど、いつも一人だった。みんなが本当にワイワイガヤガヤとそれはそれは楽しそうに嬉しそうにお昼を食べている中、わたしは蚊帳の外。誰もわたしに声など掛けてくれなかったし、「一緒にどう?」と誘ってくれる人もいなかった。それをひたすら三年間もやっていたら、おかしくもなるだろうと思う。
その時の感覚が昨日、花火大会へ行った時にフラッシュバックした。あの高校生の時の孤独で屈辱的で、でも寂しくて寂しくてつらくて、同時に怒りさえもがわいてくるようなあの感じが蘇ったのだ。これはヤバイのではと正直思った。40代になってあれから20年以上も経っているのにその時に受けた心の傷が癒えないまま、わたしの中に封印されていたようで、本当に昨日はつらかったし、あぶなかった。
去年の花火大会は特に問題なく行くことができて良かった。市内の比較的、規模の小さい大会だったからだということもあったのだろうか。ともかく大丈夫でむしろ楽しかった。が、今回の花火大会は規模が違った。大規模で人の数のレベルが違う。
花火が始まるまではこれといって問題はなかった。けれども、花火が始まるとわたしの感情は激しく乱れた。それはわたしの前に高校生か、大学生くらいのカップルがいて、二人で寄り添って、それはそれは幸せそうに花火を見ていたからだ。そこには二人の静かで穏やかな何とも言えない空間ができあがっていて、浴衣を来た男女がおだやかに今、ここで二人でこの時を紡ぎ上げている。またその寄り添い方が平和で幸せで、とにかく二人でいることが何よりも心地良い。その二人の後ろ姿は恋愛映画のワンシーンそのものだったのだ。
その二人を後ろから眺めていたら、東京へストリップを見に行ってきたとか、風俗のお姉さんがどうこうとか言っている自分がアホそのものにしか見えなくて、わたしがどんなに性的な欲求や快楽を満たして気持ちよくなってもこの二人の花火を寄り添って見上げている姿の前、つまり、二人が営む純粋な愛の前では本当にくだらないものにしか見えなくて、足下にも及ばないし、かすんでしまう。わたしがかわいそうでイタイ奴なのは明らかだ。
楽しい気持ちになりたくて花火を見に行ったはずなのに、わたしは死にたくなっていた。もちろん、わたしの前にいた若いカップルはいちゃついたりはせずにちゃんと花火を見ていた。でも、それが今思うと、目の前でものすごく崇高なセックスを見せつけられて、わたしがそれをただ指をくわえて見ているかのようだった。
少し先のところには立ち入り禁止になっている花火の発射台があった。そこへ飛び込んでいって死のうか。正直、そう思った。何かもう生きているのが嫌だなとその時思ったんだ。もういいかな。やりたいことは大方やったし、もう死ぬなら死ぬでいいかな。そんなことを考えながら、わたしの暗い気持ちなどお構いなしに花火は次々に発射されては夜空に散っていく。
日々の暮らしの中で女性のパンチラにすらありつけないわたしをよそにこの花火大会に来ている男女はひたすら日常的にセックスをしている(はずだ)。そのことも腹が立つと言えば腹が立つ。
そういう感じで花火を見ていたら終わって帰る時間になった。けれども、ここからが本当の試練だった。人、人、人の長蛇の列の帰るバスを待っている人々。長蛇と言うけれど、長蛇のレベルが違っていて数百メートルもの行列ができていた。だから、ずーっと先まで人が並んでいたわけで。
その花火大会の交通手段はバスとタクシーのみで、一般車両はもちろん立ち入りをその時間は禁止されている。徒歩や自転車もダメでバスかタクシーかの二択のみ。となれば、どんなに並びたくなくても並ぶしかない。
その時、わたしのすぐ前に高校生の男女6人組がいて、すごく楽しそうに話をしていた。彼らの様子を見ると、まさにイケてる感じの6人で、運動部に入っていて、勉強もそこそこできて、友だちも多くて、高校生活を充実させて楽しんでいる。そんな様子が伝わってくる。もちろん、男はかっこいい浴衣を着ていて、女は髪をアップにしてもちろん浴衣を着て着飾っている。魅力的な6人。もちろん、ルックスもかなりいい。できる感じのイケてる6人。
彼らは快活で声も大きくてよく通るものだから、話がわたしにも聞こえてくる。数学がどうとか、何々先生がどうとか、先輩や後輩の誰々がどうとか、そういう話をひたすらしている。高校生の男女が夏休みにグループで花火大会に来て夏の夜を楽しむ。わたしが高校生だった時にはとても考えられないようなリア充ぶり。
それを聞いていたら、次第にわたしはムカついてきた。しかも長蛇の長い長い列ができていたから、その高校生たちだけが話をしていたのではなくて、その一帯全体が話し声に包まれていた。と、そこに一人のわたし。わたしはもちろん黙っていた。話す人などいないから。一人で来ていたから。
いつもだったらリア充の高校生たちを見てもそこまでムカつくことはなかった。なぜなら、街で見かけてもせいぜい接触している時間が短くてわずかだから(長くても2~3分だろうか。いや、もっと短いか)。でも、今回は違った。それが1時間半も続いたのだ。帰りのバスを待っているその1時間半の間、そのリア充の高校生のお兄さん、お姉さんたちの会話をひたすら聞かされ続けた。それは苦痛そのもので、そこからいなくなりたかった。けれども、まっすぐ一直線に列ができて待っているところで、一人、後ろに戻るというのはおかしい。不自然だし、どう見ても不審者としか思えない。それなら、その不快で耳障りな会話(本人たちはすごく楽しいだろうけれど)をやめてほしいと彼らに言えばいいのだろうか。でも、その時のわたしは怒り心頭そのもので、とてもではないけれど「静かにしてもらえませんか」などと言えるような精神状態ではなかった。「うるせーよ!! お前ら、調子に乗ってんじゃねえよ!!」と殴りつけてやりたいくらいだった。
次第に、わたしの彼らへの怒りや敵意は殺意にさえ変わってきて、穏やかな話ではなくなってきていた。だから、必死にフタのしてある飲み終わった自分の空のペットボトル(フタがしてあるから中に空気が入っていてほとんど握っても音がしない。また、力の限りに強く握ってもつぶれない)を強い力で握ってはその衝動をこらえていた。何しろ、花火大会には警察官が大勢いるのだ。ここで実際に行動に及べば傷害ということで捕まってしまう。
この、わたしが一人で、みんなが楽しそうに話をしている状況。声の中にいる感じ。それはあの高校生の時のお昼の時間と同じ。その昔のあの時と今が重なった。フラッシュバックというのはこういう感覚なのか。高校生だったあの時のあの出来事が今、また起こっているようだった。そう、近くで話をしていたのが高校生だったからこそ、彼らの声のトーンや大きさや質感などが、当時のわたしの記憶をより鮮明に呼び戻したのだろう。あの時も高校生たちの声を聞いていたのだから、それはもっともな話だ。
それから、激不調でありながらも、家に何とか夜遅くに着くともう夜の12時近いというのに母が寝ないで待っていてくれた。わたしは母に自分がその時に考えていることや思っていることを正直に話した。そうしたら、「心配だから花火大会へはもう行かないで」と懇願された。その母の優しさと言葉が胸にしみた。母が話を聞いてくれていなかったら、たぶんその夜に自死していたと思う。
わたしはヨガに出合ってイケてる感じになってきた。体はたくましくなり、表情は凛々しく爽やかになり、心も落ち着いてきた。けれども、そうなればなるほど、特に同性のイケていない感じの人たちから突き刺すような「お前、何様なんだよ」「調子に乗ってんなよ」という感じの厳しい視線を送られるようになった。わたしが何も彼らを故意に傷つけようとしなくても、ただそこにいるだけで傷つけている。そのことがよく今回のことで分かった。花火大会の高校生の男女6人組もわたしを傷つけようとか、けなそうとか、馬鹿にしようなどとは微塵も思っていなかったことだろう。でも、恵まれている人、優れている人、活躍している人が、そうではない人、そうなりたくてもなれない人を往々にして傷つけているというこの事実をもっとわたしも含めてみんなが知った方がいいと思った。両者には分断があって乗り越えがたい壁があり歴然とした格差がある。
人と比べることは意味がない。そのことはヨガでは最も基本的なことだ。でも、目の前に自分よりも優れていたり、恵まれている人がいれば心が動いてしまう。そして、自分が寂しくてつまらない価値のない人間のように思えてしまう。だからこそなのだろう。わたしは自衛的な意味もあってネットを断つ生活をして自ら他の人たちの情報を入れないようにしてきた。と、頑張ってはきたものの、さすがに今回ばかりはもっともわたしがコンプレックスを感じる状況で、フラッシュバックもあってと難しく際どかった。でも、今こうして自死することなく、さらには傷害沙汰の事件を起こすこともなくいられるのはヨガのおかげではないかと思う。
花火大会、もう行くことはないだろうな。花火は好きなのだけれど。リア充の巣窟の花火大会は一人では行かないほうがいい。今度行くとしたら好きな女の子と一緒に、ということなのかな。それまでおあずけの花火大会。
いろいろありましたけど、生きてますよ。ま、いいんじゃないですか。いろいろあるのが人生ですから。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。