フェリーに乗って海の上で考えたこと

いろいろエッセイ
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 フェリー? フェリーだなんてさぞかしラグジュアリーで豪華な旅をしたのでしょう、とこのワードから多くの人が連想するだろうと思う。でも、豪華かどうかと言えば、そこまで豪華なわけでもない。むしろ、ディズニーランドやユニバーサルジャパンなどのテーマパークへ行ったり、東京へ遊びに行ったり、2泊3日くらいのお泊まりの旅行をしたりという方が断然お金はかかる(下手したら何十倍もかかる)。
 実際、フェリー乗り場がある最寄り駅までの電車代の数百円とフェリーの乗船料金の往復で2000円ちょっとくらいしか交通費はかかっていない。まぁ、小旅行だった。どうしてこんなにフェリーの乗船料金がお安いかと言えば、本当に船に乗っているだけだから。つまり、船で目的地へ行くことは行くのだけれど、そこで下船できないのだ。面白いでしょ? だから、本当、行って、何もしないでそのまま、また戻ってくる、というだけの船旅なんだよね。トンボ帰りのようなやつです。そういう人、あんまりいなかったなぁ(わたし以外に2人くらいしかいなかった)。やっぱり、みんなその船に乗って行った先で温泉に入ったり、観光したり、おいしいものを食べたり、泊まったりして遊びたいから、普通はそういうことをしたがらない。でも、わたしにはピッタリなプランだった。だって、まったく興味がないわけでもないけれど、その目的地の場所で何かをしたいわけではなかったから。わたしはとりあえず、フェリーというものに乗ってみたいと思った。お試し的な要素もあって、それならお安く乗れる乗船プランがいいなということで、これがわたしにとって最適だった。
 このフェリーというお船に乗ってまずわたしが条件反射的に口ずさんだのが「海は広いな 大きいなぁ♪」というあの小学校で習う歌だった。人生初のフェリーで船から海を見た時にまずこの歌が頭に浮かんできた。そう、海は広くて大きい。それも実に大きくて大きい。
 フェリーが出港(でいいのかな?)して陸から遠ざかっていくのがすごく不思議な感じがした。陸がどんどん遠くなっていって、小さくなっていく。あぁ、わたしはあの陸の上で毎日、生活して暮らしていたんだ。そして、人は魚のようにえら呼吸をして海の中で生きていくことはできないから、そのせせこましい陸の上、つまりは地上でしか生きていけないんだ。そのことに気が付いた時、自分は陸の上にいるということをまったく自覚していなかったし、してこなかったなと思った。そして、その限られた狭い陸の上で土地をめぐる争奪戦をひたすらしていて、これはわたしのものだ、俺のものだと争っている。また、土地だけに限らず、船が陸から遠ざかっていくに従って、もはや米粒のようにしか見えない小さなたくさんの建物の中で、さらに小さな人間たちが自分の方が上だとか、お前は下だろ、みたいなスケールの小さいマウント合戦をしている。そんなこともわたしは思った。
 船が出たばかりでまだ港付近にいる時には緑色っぽかった海が沖へ出て行くと青くなっていくのがとても面白かった。その青い青い海を見ていると本当にきれいだなぁって思う。わたしが今まで見て知っていた海は海岸の海水浴場の砂浜くらいのものだったから、そのインパクトはなかなかのものだった。
 船内ではなくて船の外に出て風に当たりながらずっと海を見ていたわたしだったのだけれど、いくつか面白いものを見ることができた。
 まず、トビウオ(だと思う。魚のことに詳しくないので違うかもしれない))。トビウオってすごい長い時間飛んでるんですよ。ちょっと魚がはねて自ら飛び出すとかそういうレベルではなくて、滞空時間がかなり長い。しっかり飛んでる。飛びすぎだろってくらい飛んでる。わたしは「これは鳥?」と思ったくらい飛んでいた。でも、その後、また海の中へ消えていったからあれは鳥ではなくてれっきとした魚だと分かった。ハネウオではなくてトビウオという名前を人間がつけたのは実際飛んでいたからなんだと納得できた。
 それからウミドリ(だと思う)が時々、海の上を飛んでいてすごく見ていて気持ちが良かった。また、海の上で休んでいるのか、それともエサの魚をつかまえているのか、20羽くらいの鳥の集団が海の上に浮かんでいたのも見たことがない光景だったのですごく新鮮だった。
 と、いろいろ面白いものを見ることはできた。さて、一番の本題というかわたしが船に乗って一番感銘を受けて感動したことを書きたいと思う。
 往復3時間くらいの乗船でわたしはひたすら風に当たって海を見ていた。海、空、雲、陸、山しか見えるものがない。船内ではないからフェリーを動かすために燃やしている石油の匂いが時々した。そうして、余計なことは考えないで、海を見ていたら、それも長い時間、海に吹いている風に当たりながら見ていたら、頭の中にあったごみのような不純物がどんどん消えてなくなっていった。わたしの中がきれいになっていって、ただ海を見ているような精神状態になった。何も考えていなくて、というか、もはや考える必要さえなくなっていて、自分の目の前に海が広がっていることが心地良くてそのことに満足しているような感じと言ったらいいだろうか。不安? 思い煩い? 嫌なこと、嫌だったこと? 気に入らないこと? 怒り? もう、ないよ。この風と海へそれらは溶けていってしまった。そして、今の自分にはもう何もない。空っぽなんだけれど、空虚感とか満たされないむなしい感じではなくて、気持ちがいい、心地良い空っぽ。空っぽだからわたしの中に風や海が入ってくる。そして、それらと自分が一体になっているような、フローしているような気持ちがいい状態。
 その時、わたしは「どうでもいいよな」って思った。その「どうでもいい」は、あきらめや投げやりな「どうでもいい」ではなくて、いい意味での「どうでもいい」だった。解き放たれた「どうでもいい」だったと言うのが一番ピッタリくるだろうか。わたしが生きても死んでも、もはやそれはどうでもいい。だからといって死にたい、人生を終わりにしたいという「どうでもいい」ではない。逆に、生の喜びに目覚めた歓喜の「どうでもいい」でもない。本当にどうでもいい。それはどういうことと聞かれたら、とにかくどうでもいいっていうことなんだ。そういう感じなんだとしか言えないし、言葉では表現できない。というか、言葉で表現してしまうことが野暮な感じで、言葉に変換することができない感覚だった。いいとか悪いとか、優れているとか劣っているとか、美しいとか醜いとか、価値があるとかないとか、もはやそういったジャッジはそこにはない。ただ、風を体に受けていて、海を見ていて、わたしが海の一部となっているような。いや、わたしが海で、海がわたしで、というほうが近いかもしれない。
 さらに太陽の光が出てくるとますます海がキラキラと輝きだして、それがあまりにもきれいできれいで美しすぎて涙が出そうになるのだった。目の前に広がる青い海にキラキラ、キラキラと無数に反射して光っているその様子は、海水浴場や公園の池の水の輝きなんてものではなくて、きれいできれいできれいだった。きれいで仕方がなかった。
 と浄化されモードに入って心身ともにきれいになったと思いきや、船が目的地に着いたということで行きの人たちは下りて、また違う人たちが船に乗ってきたのだけれど、どうもマナーが悪い家族連れがいた。今は選挙も近くて(この記事を書いている現在は7月20日の選挙直前。この記事がアップされる頃には選挙が終わっている)自分たちに票を集めるためなのか、やたらと排外主義的なことを主張して外国人を日本から締め出そうとする動きが活発になってきたのはこういう一部の人たちがどうしても目立って気になるからなのだろう。その態度が悪い家族連れは中国の人たちのようで、なかなかひどかった。わたしは中国人などの外国人が嫌いなのではなくて、外国人かどうかは問わず、態度が悪い人が嫌いなだけなのでそこのところは誤解しないでほしい(とただし書きをしておこう)。
 その中国人の家族連れは夫婦二人と小さな子ども一人だった。で、その子どもが船内に置いてある各種の案内の同じチラシを7~8枚持ってきて、それをソファのような長い椅子の所へ持ってきて、平気で踏みつけていて、明らかに迷惑な大きい耳障りな声を出し、みんなが食事をするテーブルにさすがに靴は脱いでいたものの、裸足でその上を平気で歩いたり、座ったりしていた。その子の両親は子どもがあまりにも大きい声を出すと「シーっ」と静かにするよう指示を出すものの、それ以外のことについては一切注意も何もしなかった。「シーっ」も控えめに注意する程度で全然叱っている感じではないし、「ダメだよ」と言葉で教え諭そうともしない。完全に子どもは甘やかされていて好き放題の野放しで、傍若無人な王様状態で我が物顔をしていた。何をやっても怒られたり、注意されない。もしかしたら、自分が世界の中心にいてお父さんとお母さんは自分の家来か召使いだと思っているのかもしれない。わたしは今までここまで好き放題やっている子どもを見たことがなかった。それくらいメチャクチャだった。さらに子どもだけではなくて、その両親も話し声がやたらと大きくて迷惑だった。
 みんな、関わると面倒くさいから彼らの方を見ていただけだったけれど、明らかに「こいつら何なんだよ」と言いたそうな冷たい視線を送っていた。「親だったらちゃんと子どもに注意しろよ。言うべき時には言えよ。最低限のマナーやモラルは身につけさせろよ。まわりに迷惑かけてるだろ」と一般的な日本人だったら思うだろうし、そういったことに厳しい人だったらその両親を怒鳴りつけることだろう。
 けれども、海パワーがすごくわたしを癒して浄化してくれていたので、少しは中国人の家族連れのことを気に入らないと思ったものの、キレて彼らにどなったり、喧嘩をしたりということは避けることができた。でも、客室にいるスタッフ(クルー?)にはちょっと彼らにやんわりとでもいいから注意してほしかったなとは思った。
 海を見ていると目がきれいになってくる。いい目になって澄んでくるような感じがするし、実際、家に着いて母から「いい表情しているね」と言われた。多くの人がたぶんそうだと思うのだけれど、自然の中で過ごしてそれに反しない生活をすると調子が良くなって元気になる。反対に、人工的なコンクリートで囲まれた環境で昼夜を逆転させた生活を送るなど自然に反する不自然なことをすると心身共に不調になる。わたしは精神疾患の統合失調症だから、やはりそういったことに人一倍敏感なのだろう。繊細なほうだから、脳も影響を受けやすいのだと思う。みんな人それぞれで、ストレスに強い人がいれば弱い人もいて、お酒もたくさん飲める人がいれば少しも飲めない人がいるように、ネットなどのデジタル機器についても同じように受け付けないですぐに心身が不調になってしまう人というのがいるようなのだ。デジタル機器が自然なものか、不自然なものかと言えば、明らかに不自然。実は多くの、いや、ほとんどの人がネットのやりすぎで不調になっているのかもしれない。その調子が悪い状態がデフォルトの通常状態になってしまっているから、それが調子が悪いということにさえも気が付いていない可能性もあるだろう。
 悩んだら、人生に悩んで行き詰まったら海へ行くのがいいと思う。海岸の海水浴場でも、フェリーに乗るでもいいから海をひたすらぼーっと何も考えないで眺めてみる。海は何も「ああしろ。こうしろ。それではダメだぞ」と言葉を使って教えようとはしない。でも、言葉を通してではなくて、ただ海そのものの姿を通してわたしたちに何かを教えてくれる。理屈で論破したり、命令するのではなく、ただ大きな背中のようなものを見せて教えてくれるような感じ、と言ったらいいだろうか。何も教えようとしないという教え。海を見る。そして、感じる。言葉も補助にはなるけれど、言葉ではない何かをつかみ取れそうな気がするから、悩むと海へ行くという人が結構いるのだと思う。
 で、最後に、どうでもいいことのようでありながら、実は一番これが重要なのかもしれないということを言うので、耳かっぽじって聞くように。今度のテストに出ますよ。

 「ハラモのねぎま」(300円)がうまかった。

 ハラモはマグロのお腹の部分だそうです。これがホント、うまいんだわ。ハラモ、うますぎだろってくらい。
 こっ、こっ、これが一番重要なこと? ふざけておりません。まじめにふざけておりますので断じてふざけておりません。
 駿河湾フェリーに乗船の際にはその周辺で売っているハラモのねぎま(300円)を是非!! これが結論? ふざけるな。だから、真面目にふざけているのでふざけていません。
 ともかく、初フェリーは最高でした。ちなみに近くの下田には昔、ペリーが黒船で来たそうです。ってどうでもいいよ。
「海にお船を浮かばせて~行ってみたいな~よその国~♪」なんてね。

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