以前、電車に乗ったら若い女の子がしきりに自分の前髪を気にしていた。本当に頻繁に前髪を鏡で見ては直していて、すごく大変だろうなと思った。
で、今ふと思うことは、わたしについてのことはその女の子が前髪を気にしていることと同じようなことではないかということ。わたしがどう生きるか、どんな生活を送っていくか、幸せになるのかならないのか、その他もろもろのわたしに関すること。もっとはっきりと言ってしまうと、わたしが生きていくかどうか、あるいは死んでいなくなるかどうかということ。
その女の子はしきりに自分の前髪を気にしていたけれど、他の人にとってはそんなことはどうだっていいことで、別にその前髪が乱れていようが自分には関係ないし、興味がない。街へ行くとそういうことを思ってしまう。人が多すぎるということもあるのだろう。でも、みんな他の人に対して基本的に関心がない。
このブログでわたしが夢のお告げの通りに死ぬかもしれないという記事を今年の2月に悲痛な思いで叫ぶように書いても、ほとんど誰も読んでくれずスルーされ、あぁ、わたしが死んでも別に関係ないんだな。興味すら持ってもらえないんだなと思ったものだった。たぶん、どころか、どうでもいいのだろう。わたしが生きようが死のうが。いてもいなくなってもどちらでもいいのだろう。
わたしは電車の女の子が前髪を気にするように、しきりに自分がどう生きるかとか、何をやっていくかとか、生きるか死ぬかということをひっきりなしに考えて気にしている。でも、ほとんど誰もそんなことには興味関心がない。むしろ、自意識過剰で「あいつ自分のことばっかり言ってるよ」と煙たがられてさえいるような気がする。自分が、自分がっていう文章、うざいよ。わたしがどうしたとか、こうしたとかうざいだけだから。と思ってもらえるならまだしも意識を向けてもらうことができている。けれども、多くの人は「興味がない。さようなら~」でおしまい。まぁ、それが一番賢いと言えば賢い。自分の命である時間を削ってまでやることではないと判断して、自分が使いたいように命である時間を使っていく方が合理的だからだ。無駄な時間は使わない。時は金なりで無駄に使っている時間はない、と。
街を歩いていると、あぁ自分はいてもいなくても同じなんだなって思う。もちろん、お店へ行けば店員さんが接客して優しくしてはくれる。でも、その店員さんが優しいのはわたしのお金がほしいからで、別にわたしのことが好きなわけでも何でもない。仕事だから、賃金が発生しているから優しくしているだけのことでしかない。わたしに興味があるから、わたしのことが好きだから優しくしてくれるのではない。この事実がすごく骨身にしみて突き刺さるように痛い。仕事だから優しくしている。本当は優しくしたいとは思っていない。何だかそう考えると寂しい。まぁ、その店員さんにとってはお金がすべてではなくて、自分が売っている物やサービスで人を幸せにしたいと思う気持ちもあるだろう。でも、それなら純粋に実費のみでやればいいのに、と思ってしまう。さらにできるなら、ほぼ無償で無料に近い形ででやればいいのではないかという風に。
ここまでうだうだ考えながら書いてきて、おそらくわたしは無条件に承認してくれる人がほしいのだろうということがうっすら見えてきた。でも、そんな人はいない。無条件で承認して愛してくれる人なんていない。みんな有能で自分に利益を与えてくれる人が好きで、利益をもたらさなかったり代わりに不利益を被らせる人は嫌われて遠ざけられる。
となると、わたしの理想とする人は、暴力をふるわれても、金品を要求されて巻き上げられても、挙げ句の果てには殺されそうになってもそれでも変わらずにわたしのことを愛し続けてくれる人だということになる。そんな人いるか? いたら聖者だ、その人。
そんな人には言うまでもなくお目にかかれないだろうから、そこまで理想とする人物に出逢うことは無理だとしても、今のわたしに必要なのは母以外の女の人から熱烈に愛されることではないかと思う。「大好き、大好き、最高に大好き」と熱く愛されることくらいしか今のわたしに有効な処方箋はないのかもしれない。
でも、そういうことを言って渇望しながらも、「お前自身が誰かのことを身代わりになって死んでもいいくらいに愛しているのか?」と聞かれたら「はい」と即答することができない。
と、今一瞬閃いた。それもすごいことを。1000年後か1万年後かどちらでもいいのだけれど、それくらいの時間が経った時にわたしがその1000年や1万年前に自死したかどうかなんてどうでもいいことになるのではないかと。そこで自死せずに40年、50年生きて長寿をまっとうしてもしなくても、本当どうでもいいことだなって。それと同じように、今のこの世界、社会で影響力があって死んだら困ると思われている偉い人たちであっても、1000年後、1万年後の時点から見たらその人たちがどうしたこうしたというのは本当どうでもいい話。その頃にはその人たちのことを知っている人なんて生きていないから、無名の人も偉い人も同じようなものでしかない。本当、どうでもいいよねえという話だ。
そうか、わたしがいてもいなくても同じように、そうではないと思われている人も長いスパンで見てみればほとんど同じようなもので、いてもいなくても同じなんだ。って完全にこき下ろしてますね。こき下ろして自分と同じレベルにまで引きずり下ろしてますね。
でも、ということはだ。別に思い煩って死ぬことはないということだ。やめとけ、やめとけ。くだらないからやめておけ。死ぬのはやめとけ。どんなにダメでしょうもない人もどんなに偉い人もみんな同じようなものでしかなくて、どうでもいいのは同じなんだから死に急ぐなよ、というのが今気付いたことでそんな気がしてきた。
しかしながら、それすらも悠久の時の流れからしたらどうでもいいのかもしれない(ってどっちなんだ?)。究極的には、どうでもいいから生きるのか、それともどうでもいいからこそ死ぬのか。何かもう、そのどっちにするかということさえもどうでもいい。だったら自死しないで生きたほうが自然なあり方で無理がなくて、人間はいつかは死ぬのだから生きていたほうがお得なのではないか。
で、冒頭からここまでの文章を改めて冷静に読み返してみたら、要は、自分が価値があるかどうか、もっと言うなら生きていてもいいかどうかということの基準を人に丸投げしてしまっていたということが見えてきた。ということは、みんなが「あなたは素晴らしいね。価値がある存在だよ」と言ってくれている時は価値がある存在で生きていてもよくて、反対に「あなたはダメだね。価値がない存在だね」と言われたり思われたりする時にはそれに従って死ななければならないということになる。つまり、生きるかどうかは他の人たち次第。他人次第で、自分に軸がない。
ここで一言。わたしに生きる権利、人権はないのでしょうか? 人から関心を持ってもらえないだけで死刑なのですか? ということになる。
電車に乗っている女の子の前髪はわたしを含む多くの人にとってどうでもいいこと。でも、その女の子にとってはどうでもよくないはずだ。ものすごく気になる問題で深刻なことなのだと思う。同様にわたしがどう生きるか、生きていくのか、生きるのかそれとも死ぬのかということは少なくともわたしにとっては重大な問題でとても大きなことだ。他の人はわたしが生きようが死のうが知らない関わりのない人だからどうでもいいのかもしれないけれど、このわたしにとってはとても大切なこと。その気になっている大切なことをほぼ見ず知らずの多くの人たちの態度に委ねてしまう。中には、思い悩んでいるわたしに「死ねばいい」と面白半分に言う人もいるかもしれない。そんなわたしのことをよく知りもしない無責任でさえある人たちの言うことに従うこと自体、馬鹿げているのではないか。もちろん、彼らは責任を何も取ろうとはしないし、実際取れない(人が死んでからその責任を取るために損害賠償としてどれだけたくさんのお金を積んでもその人が生き返って戻ってくるわけではない)。まったくもってして馬鹿げている。
いてもいなくても同じだったら、いてやろうじゃないか。いられるだけ、めいいっぱい居座ってやろうじゃないか。カフェやファミレスで長時間ひたすらコーヒー一杯で居続ける人のように図々しくしぶとく粘ろうではないか。
わたしは今、人生というカフェにいて、そこで時を過ごしている。自らの意志でここにいることを続けることもできれば、やめることもできる。せっかく来たのだからいられるだけいたい。でも、いつかは店を出ていかなければならない。急ぐな、まだ閉店前だ。その時はまだ訪れていない。
死に急ぐな。急がなくても、自ら終わらせようとしなくてもいつかは死ぬ。だったら生きたほうがいいだろう。わたしは人気者ではないし、何かに優れているわけでもない、いてもいなくても同じ存在だろうけれど、いられるまでいたいものだと思う。いすぎて迷惑がられるくらいに。
と思いましたら、やっぱり星さんは夢のお告げの通りにやはり2月に、それも若くして亡くなりましたとさ、なんてオチが待っているのかもしれない。ま、そうなったらそうなったで、もうその時には時すでに遅しでもう死んでいるのだから大きな流れに身を委ねるだけのこと。
どういう風に死ぬのか、いつ死ぬのかは分からないものの、神様からのお役目が終わって「もういいよ」となった時に人は死ぬのだと思う。だとしたら、いてもいなくても同じではないということになる。いてもいなくても同じだったらこうして生まれてきていないだろうから。ということは、神様にとっては今、わたしはこの世にこうしていなければならない存在だということになる。そして、わたしにはまだお役目があるということなのだろう。
わたしはなぜ今もこうして生きているのだろう? 過去に自殺未遂さえしたことがあるのにどうして生きているのだろう? ある人にこのことをどう思うか聞いてみたら、「まだ神様があなたに『その時ではないよ』って言ってるんじゃないの?」と答えてくれた。ま、死ぬ時には死にます。その時が、神様のその時が訪れたらね。だったらそれまで、だらだら、ぐだぐだ長く居座れるだけ居座ろうじゃありませんか。
いてもいなくても同じならいてやる。居続けてやる。居座ってやる。何てロックなんでしょ。わたしはロックは聴かないけどね。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。