死ぬなら死ぬでよろしい~「誕生日」を迎えて~

いろいろエッセイ
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 昨日、ラジオを聞いていたら何でも43歳でおじいちゃんになったという人の話をしていて、一言、すげーと思った。一方、わたしはおじいちゃんになるどころか、死ぬまでに女の子とデートをできるかどうかということさえ怪しい。この格差は何、と思ってしまった。
 まぁ、ともかく何だかんだで今日はわたしの41回目の誕生日。この記事を書く前に、ここ数年の自分がこの日に書いている文章を読み返してみて、天ぷら屋さんに行って母と食事をしたとか、ヴィーガンでケーキが食べられないからお団子を作ってお団子バースデーをしたとか、あぁ生きてきたんだなぁということを思った。
 最近のわたしはヨガをやっているせいか、すごくサッパリしていて、人間生まれてきて死ぬ時になったら死ぬでいいんじゃないの、という感じだ。夢のお告げで2月の某日に死ぬらしいことを言い渡されてからというもの、その日をこえることができるかどうかすごく気になってはいる。それが曲者なのは、いつのその日なのかが分からないことで、来年かもしれないし、数十年後のその日なのかもしれないとハッキリしないことだ。あるいは、その夢のお告げは間違いであって、2月でも何でもない日にわたしが死ぬ、ということも考えられる。
 だからだろうか。いつ死んでも後悔しないように、やらなければ死ねないということはもう全部やった。やってしまった。まぁ、やりたいこととしてはインドに行ってみたいとか、そういう気持ちはあるけれど、それは別にやれたらいいことであって、何が何でものマストなことではない。
 わたしが死ぬ日は、もしかしたらキリスト教的に、それも摂理のようなガチガチな感じの考え方で行くのであれば、天地が創造される前から神様によって決められていて、わたしがどんなにあがこうが何をしようがその日に死ぬことを避けることができないのかもしれない。わたしが自由に行動していると思っていることも含めて、すべてはただ決められた通りをなぞっている。そんな可能性もある。
 うっ、話が堅苦しくなってきてる。ま、軽薄男のわたくしは女の子と死ぬ前にやることができて童貞を卒業できたのでもう満足なのです。って、誕生日にそのコメントってドライすぎるだろ。もっと何かいいこと、それも道徳的に、人間的に素晴らしいことを言ったらどうなんだ? と誰もわたしを責めているわけでもないのに、叱られているような。これこそ、ある種の被害妄想なのかもしれない。
 今日どうしようかな? ヨガをやるために街へ行くから、デパートで奮発しておいしいショートケーキでも買ってこようかな? ヴィーガンではないから何を食べてもいいわけだし。
 わたしのこれまでの人生を振り返ってみると危ない時期もあった。それはまるで綱渡りのようで生か死かという、どちらに傾くかみたいな危うい日々で自分自身、感情の浮き沈みに翻弄されていた。でも、そこからヨガと出合って人生が好転した。その前にはキリスト教と出合った。キリスト教は人生が絶望ではないということを教えてくれて、ある意味レスキューしてくれたわけだから感謝している。わたしはキリスト教と出合い、その後ヨガとも出合い、今がある。それが何というか、必要な時に必要なものが与えられたような感じがする。それも何か大いなる存在というか、大きな流れのような神聖な存在によって。それをキリスト教なら神様からの恵みだと言うだろうし、ヨガ哲学で言うならヨガの恩恵ということになるのだろう。それが神様なら神様でいい。ヨガで言うところのブラフマンならブラフマンでいい。ともかく、わたしは大いなる存在に生かされているのだと思う。自分の力でやってきたと自分の手柄にして過信してしまう時もあるけれど、そうではなくてすべてを与えられている。
「神様からのギフト」「感謝します」。教会生活をやっていた頃、分かったかのように、まるでお題目か何かを唱えるように発していた「感謝」という言葉が最近とても身にしみるようになってきた。キリスト教もヨガもインド哲学も行くところまで行くと、無私になり大いなる存在へ感謝するというあり方へとたどり着くようで、結局本質はそこなんだろうなと思う。わたしはこれを手に入れたい。わたしはこれがほしい。わたしはこうなりたい。そんなわたしは、わたしはとか、わたしのものという意識を超えて、「ただあなたに捧げます」と委ねる。委ねて委ね切って自分自身をその大いなる存在に明け渡す。本当の意味での高い境地とはそういったものではないだろうか。もはや、それは高いとか低いとか、そういうことに何もこだわっていないし、高くなりたいとか求めてもいない。もっとあれがほしい、これがほしい、こうなりたい、ああなりたいなどという邪念はそこにはない。ただ澄み切った心で大いなる存在と邂逅して一つとなっている。きっとそれがわたしの求めていること。
 普通の意味で死にたくはないけれど、死ぬなら死ぬでよろしい。生まれてきて、そして死んでいく。それでいいのだと思う。潔いでしょう? でもなぁ、死にそうになったらジタバタ「死にたくねーよ」と大声で喚いたりするのかも。それでも死ぬ時は死ぬ。それでいい。そんなことを思った誕生日の朝。
 今から街へヨガをやりに出掛けてきます。ケーキを買ってくるか否か。そんなことも考えつつのバースデー。神様、モークシャに至ることができますように。あなたへと至らせてください。ではでは。

 <帰宅後の夕方記す>
自宅に帰ってきたわたしは母に誕生日ということでお寿司をご馳走してもらえることになった。
 と、その前に嬉しいことがあった。何とヨガの師匠から練習が終わった帰り際に「お誕生日おめでとう」とプレゼントをもらえたのだ。あまりにもサプライズだったのでものすごく嬉しかった。と言いたいところだけれど、実は内心というか本音としては、もしかしたらもらえるかもしれないとほのかに期待していた。でも、そういうこと(誕生日プレゼントがもらえるかどうかということ)に振り回されてしまうのも何だし、それをくれるかどうか、祝いたいと思ってもらえるかどうかは先生の問題だから、まぁ何ももらえなくてもいいとしようと思っていた。もらえたら嬉しい。反対に何ももらえなくても落胆したり失望したり怒ったりしないようにしよう。だから、結果はどうであれ、心の準備はできていた。
 最近、人の言動を目にすると、その立ち姿なり佇まいなどにふれると、その人が放っているエネルギーのようなものが感じられるようになってきたわたし。そんなわけだから、「この人とは関わらない方がいいな」と感じたら距離を置くなりすぐエスケープしています。昔のわたしはそれとは真逆で、あえて自分から危険な感じの人へと近付いていっては地雷を踏んで負傷していた。
 20年近くお世話になっている精神保健福祉士のWさんとヨガの師匠のそれぞれからは違う空気を感じる。でも、二人に共通しているのは、相手を包み込むようなやさしいいい空気を放っているということ。そう、いいエネルギーが種類は違うけれど、確実に流れている。それだけは事実のようで、二人と話をするとわたしは明るく前向きになれて、大切にされていることが感じられ、やる気も出てくる。
 ヨガの師匠がわたしにそのプレゼントを渡す時に放っていたエネルギーは慈悲というか、慈しみのそれはそれは温かい空気でとても嬉しく温かい気持ちになれた。何もそのプレゼントがすごく高価な物だったからというわけでもない(いや、実はすごく高い物なのかもしれない?)ただただ優しくてあたたかくてじんわりと穏やかな空気が師匠の周りに立ちこめていたのだった。
 ヨガの帰り道、街のデパートが朝早くて開いていなかったことと、それまでの時間をつぶして開店を待ってもおそらく値段が高いだろうから、いつものなじみのスーパーでケーキを買うことにした。が、いちごのショートケーキが値引き品しかない。きっとクリスマスでも何でもないからケーキなんてほぼ売れないのだろう。
 そんなこんなで、ほどほどに安いケーキをいくつか買ったわたしは帰宅した。で、それからお寿司屋さんへ。お寿司はおいしかった。本当においしいお寿司だった。けれど、すさまじい衝撃は受けなかった。おいしいことはおいしいのだけれど、普段のおうちご飯もそれに負けず劣らずおいしいのだ。わたしが本を見ながら作る料理、案外いい線まで行ってるかもね? いや、下手したらプロが作る料理とほぼ同じかそれ以上においしいのかも。でも、うまし。お寿司は本当にうまい。これはこれでもう完結していて、おいしさの頂上まで登り詰めている。
 それから母とお寿司を食べながら交わした会話もすごく楽しくて幸せなひとときだった。お互いクリスチャンで根本的な価値観が一緒だからなのか、すごく話をしていて心地いい。余計なことは二人とも言わない感じだし、アドバイスとかそういうことも最近ではしなくなったからそれも効いてるのだと思う。
 う~ん、来年も母と、わたしの誕生日にお寿司を一緒に食べることができるかと考えると、急に、残された時間に限りがあって、それは今この瞬間にも減っているという厳しい現実をつきつけられる。と言いますか、来年の2月に死ぬのではないか、と夢のお告げにまだびびっているわけで。母が元気なうちに楽しい思いとかしてもらって、喜んでもらいたいな、喜ばせたいなって思った次第。でも、親孝行してますよ。結構まめにお料理を作ってますからね。それもメチャクチャうまいやつを、ですよ。
 今日はとってもいいお誕生日だった。お寿司の後のカフェでこれまたご馳走になったみかんジュースもおいしかった。あっという間に390円を飲み干してあまりにもあっけなかったのであっけにとられたみたいなオチ。
 わたしは狭い世界で、狭い人間関係の中で、地味に行動して日々生きているだけだと批判する人がいるかもしれない。でもね、わたしはわたしなりに行動範囲を広げてますからね。数年前なんて一人で不安だからと電車に乗って街へ行けなかったくらいだった。これは実話なので注目! そんな冴えない病んでいた青年が今ではほぼ一週間休みがないに近い頻度で街へと行き、ハードなヨガの練習をそれなりにこなしている。
 わたしは成長している。去年の今頃より断然いいのは気のせいではない。けれど、わたしはこの「自分が、自分が」「これは自分の物」という意識を抜け出したい。抜け出して成長していきたいんだ。「ヨガの恩恵は副産物でしかない」とヨガの師匠は以前わたしに話をしてくれた。師匠は悟りがどうのこうのとは言わないタイプの人なのだけれど、人生の目的とやらは、美容とか健康のためではなくて悟ること。こうインド哲学は喝破していて、これこそが至上命題だ。
 やっぱり朝3時に起きるともう夜の6時か7時にはもう睡魔が。眠い。いい誕生日だった。来年もまた誕生日を迎えることができますように。
 わたしの広いとは言えない人間関係において関わってくれている人たち。わたしは彼らに誰よりも感謝したい。その中でも母は別格の存在で……、ってわたくしはマザコンではありませんよ。だって自分の新婚旅行には母を連れて行かないですからね(奥さんと二人で行くから)。「そんなの当たり前だろ」とお叱り受けそうですが、わたしはマザコンではなくて母親思いですのでお間違えなく。
 ヨガの道場もかれこれもう少しで1年。おもしろくなってきた。執着せずにサッパリとやっていきたい。サッパリ、しっかりとね。

 <追伸(翌々日の9月26日記す)>
 昨日、メールボックスを開いたら精神保健福祉士のWさんからメールが来ていた。彼女はわたしにお誕生日おめでとうのメールを送ってくれていた。嬉しかった。
 わたしはこれで3人から誕生日おめでとうと言ってもらえたことになる。3人。少ないのかもしれない。何百人、何千人、いや何万人、それ以上の人たちから祝ってもらえている人からしたら可哀想にさえ見えてしまうかも知れない。でも、誕生日は祝ってくれる人の数ではない。そうではなくて、気持ち。そのおめでとうという言葉にあたたかい何物にも代え難い気持ちがこめられていれば、もうそれ以上のものはないと思う。人数とか規模とかかけたお金とか、そういったことは本質ではない。ただ、わたしの誕生日を何の邪な思いもなく純粋に祝ってくれた。それがどれだけ尊いことか。
 わたしがもしもこれから先、何十年も生きて老人になり、この3人がこの世にいなくなっていたとしても、またその時はその時できっと誰かがわたしの誕生日を祝ってくれていることだろう。わたしとつながった人が誕生日を祝福してくれているはず。
 精神保健福祉士のWさんが以前メールに書いてくれた「誕生日は自分を産んでくれた母親に感謝する日」という言葉が思い出すたびにすごく感動的に迫ってくる。Wさんのその言葉は自分も実際に母親になってみて初めて分かった実感を伴ったものであるのは言うまでもない。実際に子どもを産んでみてわかったからこそ発することができる言葉。男のわたしがどんなに想像力を駆使しても分からないその産むという経験とその時の感覚。わたしはその言葉を本当の意味では理解できないと思う。頭で分かったような気になっているけれど分からないその言葉。反対に女の人にはおそらく性欲に圧倒されてしまう男の気持ちは理解できない(女性でも性欲が強い人はいるようだけれど)。オスとして本能的にいろいろなメスを求めてしまうその苦しさは分かれと言っても難しいだろう。
 今ふと思ったというか気付いたのだけれど、すべての存在、つまり万物には誕生日があるんだなってね。わたしに誕生日があるように、猫にも犬にも家畜たちにも野菜にも虫にも石にもコンクリートでできた人工物にも建築物にも、ありとあらゆるものに誕生日がある。そう考えたら何も自分の誕生日ばかりが特別なわけではない。そう、毎日が誰かの何かの特別な日なんだ。
 わたしは生まれた。だから、今ここにこうして生きている。そして、死んでいく。それでいいような。諦めとは違う何か静かな空気が今わたしの周りを流れている。だから、死ぬなら死ぬでいいのだと思う。自らの手で強引に強制終了するかどうかにかかわらず、人はいつかは死んでいくのだから何も早まる必要はない。死ぬ時になったら人間は死にます。どんなに健康に気を付けて、心身ともにたくましくて、どんなに幸せを感じていても、死ぬ時には死にます。死ぬ時が訪れたら死にます。ヨガの師匠が道場でそこが結構上の階にあるものだから、時々言うのが、真顔で「落ちたら死ぬよ」。師匠は何てドライな人なんだろうと思ったりもしたけれど、その感覚が何となくつかめてきたような気がする。執着を手放すというのは生にも死にもしがみつかないこと。師匠が「死ぬなら死ぬでよろしい」とまで思っているかどうかは訊いてみたことがないから分からない。でも、要はそういうことではないかと思う。
 と達観したかのような偉そうなことを言っているわたくしですが、まだまだ修行が全然足りないのでしょう(だってヨガ歴がまだ2年くらいですからね)。生にしがみついていて、死ぬことをまだ受け入れることができていない。「死ぬなら死ぬでよろしい」だなんてまだまだ言えたものではないのです。その言葉を確信を持って自然に言えるようになった時にわたしには何が見えているのか? どんな景色を目にしているのか? その景色が見たくてヨガをやっている、のかもしれない。
 来年の2月に死ぬことがありませんように。長生きできますように。ってまだまだ生にしがみついてますね。死ぬことを恐れていますね。
 さて、このたび、星のおじさんは41歳となりました。自分で自身のことを「おじさん」というのはいいのですが、人から「おじさん」と言われるのは嫌です。年齢はもうおじさんなのに見た目はどう見ても20代後半にしか見えません。貫禄や威厳というものはなくおじさんと言うよりもお兄さんという感じです。というか、本当にわたしは41歳なのでしょうか。本当は28歳なのでは? そこから時間が止まっています。そして、その失われた青年期を取り戻そうと、挽回しようと今一生懸命やりたいことをやっているのかもしれません。
 ってあんた、追伸長いよ。っていうか、これは追伸なの? 追伸になってるの?
 まだまだ人生これから。80歳までまだ40年近くあるんだから。でも、来年の2月に死ぬかもしれないから長く生きられないかも。とわたしの執着は消えることがないようで。
「死ぬなら死ぬでよろしい」。いつか言えるようになりたい。言えるようになって世間をギャフンと言わせてやる(?)。やられたら倍返しだ(??)。
「いいかげんにしなさい。もう41なんでしょう? しっかりしなさいよ。しっかりしてよ、もういい歳したおじさんなんだから」。
 と、と、年上に叱られちゃった。年上もいいよなぁ。すごく熟れてて。熟したバナナがおいしいのと同じ(って何を言い出す?)。ねぇ、文章が少し迷子になり始めてるよね?
 つまり、これは3だな。3なんだよ。どう考えてもこれは3。きっとあなたにはこれが分からないと思う。だって、わたしも分かっていないのだから。
 41歳になった星のおじ……、お兄さんの挑戦はこれからも続いていく。多分。長文読了感謝。

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