ヴィーガンやめて、本を買うのもやめて

いろいろエッセイ
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 もう春ですね。まだ寒いけど。そんなこんなでわたくし星も生きているわけでございますが、やめたことがあります。それはヴィーガンと本を買うこと。
 って本を買うことはともかくとしても、ヴィーガンやめたってどういうわけなのさ? あんなに以前、菜食推しで肉を食べることを批判していた人がどういう風の吹き回しなのさ? おっしゃることはごもっともで、わたしは過去に肉食を批判していた。動物製品全般を使用することを批判していた。そして、菜食こそがもっとも命を殺すことが少ない理想のスタイルで、肉を食べている人というのは殺しまくっているわけだから良くない、と。
 が、もうヴィーガン始めたのが去年の4月だからもう少しで1周年ってなところでわたしは方針を変えることにした。
 実際、ヴィーガンをやっている時というのは自分は正しい生き方をしていると思っていた。というか、そう思えなければ、そんな宗教的な食についての決まり事よりも厳しいヴィーガンでいることなど到底できない。けれど、わたし自身の中で変化があって、もしかしたらこれってやせ我慢の偽善ではないのか、という気がしてきた。偽善なんていうと今もヴィーガンを堅く守っている人たちに対して失礼だけれど、偽善までいかなくても果たしてそこまでする必要があるのか、と考えた時に何もそこまで自分に縛りをつくる必要はないと思ったんだ。
 ヴィーガンという生き方は立派だと思う。だから、わたしも立派な生き方をしていたし、できていた。けれど、やめることにしたんだ。理由はいくつかある。
 まず、ヨガの先生が何でも食べる人だということから影響を受けた、ということ。わたしのヨガの師匠はベジタリアンでさえもなくて、何でも食べる。理由は意外とシンプルで外食するにしても東京ならともかくこの近辺ではそうしたお店はほとんどないからとのことだった。って全然倫理的でも何でもないじゃないですか。でも、師匠はちゃんとヨガをやれているし(当たり前だろ)、わたし以上に体も柔らかく、しなやかな身体を持っている。心もわたしの「ヴィーガンであらねばダメなんだ」みたいなガチガチな感じではなくて実に飄々としてこだわりに縛られていなくて自由。そういうわけで、これは師匠に倣ってもいいのではないか、と思ったんだ。でも、面白いでしょ? ヨガの師匠と弟子の二人がいて、弟子がヴィーガンで身体も心も固くてガチガチかと思いきや、師匠はそんなこだわりは何も持たずに何でも食べて颯爽とヨガをやっている。
 ヨガの先生ってみんな少なくともベジタリアンなのかと思っていたんだけれど、そうでもないらしいですね、というわけなのだ。
 次に理由として挙がるのは、命はみんな同じ重さで平等ではないかということに気付いたからだ。よく、ヴィーガンへの批判として「あなたたちは植物を殺して食べているでしょう?」といったものがある。わたしは自分自身がヴィーガンでいる時にこの批判が何を意味するのかしっくりと来ていなかった。でも、今、改めてこの批判を受け止めてみると、そういうことだったのかとすごく合点がいく。そう、これはすべての命は平等ではないかという観点からの批判だったのだ、おそらく。ヴィーガンのあなた方は動物の命を植物よりも上に置く。その根拠は何かと問うているようなものでもある。いろいろヴィーガン側としては根拠はあるだろうけれど、じゃあ何でその動物の方が命の価値が植物よりも高いのですか、と来るわけだ。
 すべての命の価値が等しいと考えるなら、10本のにんじんの命の重さは10羽のにわとりと同じだということになる。そう来ればきっとヴィーガンの人は「そのにわとりは大きくなるためにたくさんの穀物の飼料を食べるから、最初から肉を食べずに植物を食べた方が被害が少なくて済む。結果的に殺さなければならない命も菜食の方が圧倒的に少ない」と言うだろう。
 これに対して肉を食べる人間は何も答えることができない。かと思いきや、そこから反撃を開始する。おそらくこう切り出す。「たしかに菜食の方が殺す命の数は少なくて済む。それは認める。しかし、程度の差こそあれ、ヴィーガンだって大量に植物を殺しているではないか。それをどう擁護するんだ? 肉食者、雑食者、菜食者、ヴィーガンの順に進んでいくほど殺す命の数が減っていくことは認めよう。しかしながら、生きるために殺していることに変わりはないのではないか? もしもヴィーガンのあなたが自分は肉を食べる人たちよりも奪っている命が少ないからという理由で批判するなら、それは不徹底なのではないか? 殺すのを完全になくしてゼロにしてから批判すべきではないのか? たしかにわたしたちは家畜の食べる植物(穀物の飼料)をも殺しているのだから被害はヴィーガンであるよりは何倍も大きい。しかし、人間の命は地球と同じくらい重い、との言葉があるように、それを植物や動物にもあてはめるとしたら、もうどれだけたくさん命を奪おうがもう既に最大を越えてしまっているのだから意味をなさないのではないか? 10本のにんじんを殺して食べることは、10羽のにわとりを殺すことは、それぞれ10個の計20個の地球を破壊することと同じ所行をなしている、というわけではない。もう既に1本のにんじんを殺している段階で最大値まで行ってしまっているのだ。どんなに殺そうが、もう地球はない。にんじん1本を殺した段階で地球はもう木っ端微塵というわけだ。それが命の重さは地球と等しいという意味なのだとわたしは思うのだが、どうだ? 人を殺すと罰せられる。人数によっては日本なら死刑となる。それと同じように、にんじんやにわとりが人間と同じ命の重さだとしたら、にんじんを食べる者はにんじん殺しであり、にわとりでならにわとり殺しで、しかも大量に殺している。これは死刑になるだけの重罪を犯しているのではないか? 奪った命の数もたしかに罪の重さをはかる意味ではあるだろう。しかし、もう既にわたしもあなたも重罪人で死刑を宣告されるだけのことをやっている。それなのに、ヴィーガンのあなたは自分の方が殺した数が少ないからとわたしを責める。それがどれだけ意味のないことか分かってもらえただろうか?」
 少々長くなったけれど、今わたしはこんな風に考えている。が、こう考えると最終的に罪から逃れるためには何も殺さないようにして餓死して死ぬ、となりそうだ。うーん、ここで行き詰まるわけなんだ。で、そこから開き直って全然理屈にすらなっていないけれど、「みんなお肉とか食べているからいんじゃないの?」となる(ってオイ!)。「許容範囲内なんじゃないですか?」(オイオイ!!)となる。「人を殺しているわけでもないし」と。「それでいいのか? いいのかよ」とツッコみ所満載なのは百も承知。けれど、ここで真理を突き進もうとすると、餓死するしかないわけでして。突き詰めましたのでこれで良しとさせてください(って説明になってないな)。
 そして、3つ目の理由がいろんなお料理を作って食べたかったから。うむ、しごく単純であります。和食にしても中華にしても、フレンチ、イタリアン、何でもお肉は必需品なのです。逆に肉を使えないとなるとかなり作れる料理が限定されてくることになる。つまり、欲望に負けたということなのさ。てへ。
 以上、ヴィーガンをやめるに至った理由を説明してまいりました。2つ目の理由がかなり長くなって息切れしました。書くのがきついぜ。
 さてさて、何だか本を買うのをやめたことがおまけみたいになってしまいましたが、まぁ、おまけなのかなぁ? でも、この決断は大きいと思っていて、かなり出費が抑えられています。本は図書館で借りて読むのぉ、と方針転換したわたしはどこへと向かうのか。読書も旅と同じく風任せなわけで、どこに向かうやら分かりません。向かっているのか存じ上げません。ってそんなんでいいのか? いいの、いいの。人生なんて出たとこ勝負なんだから。信念なんてあってもなくても、その時、その時、自分が一番信じるもので進んでいけばいいの。「かなり適当ですね、星さんは」と思わせたところで(いや、真面目ちゃんなんですよ。根は真面目で根本的に真面目で生き方も真面目で眼鏡も真面目で背筋も真面目で下半身事情は真面目でありたいけれど(?)とにかく真面目。真面目アピール終了)おそらくこの記事も多くの人には読まれないと思うので(それを言っちゃあお終ぇよ)閑古鳥の鳴き声に耳を澄ませましょう。聞こえてくるよ。聞こえてくるよ。閑古鳥の鳴き声が。「カンコー(観光?)、カンコー(感光?)」。って変換おかしいよ。
 おー、あまりにもつまらなくて寒気がしてきた。つまんないから別の動画見ようっと。それが賢明ですよ。って行っちゃあダメぇ。

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