今、地球上には人間が80億人もいるのだから、その中の一人にしか過ぎないわたしがどう生きてどう死んでいこうが、大した問題ではないのかもしれない。でも、わたしにとってわたしという存在は24時間365日、片時も離れず一緒にいて、わたし自身がやっていくにあたって必要不可欠な誰よりも大切な存在だ。だからだろう。自分がどうするか、とか、どういう風にやっていきたいか、ということを絶えず考えていて、そのことで頭が持ちきりになってしまう。要するに、自分ファーストで自分がかわいいのだ。
そういうわけで、今わたしが考えていること、思考をほとばしらせていることは「今のままでいいのか」という至極単純な問いでそのことをうだうだ考えているのだ。
あなたもきっと、というか絶えず「今のままでいいのか?」と問うた時もあっただろう。そして、それに対して「これでいい」と静かに落ち着いて自分に言い聞かせるかのように答えることができるようになった時、人はある程度の成熟を得たということになるのだろうと思う。それまでは青い。青くて自分探しの旅をしていて、まだまだ彷徨っている。
わたしの場合は、今、無職で働いていないことにどこかこのままでいいのかという負い目のようなものがある。働いていない人たちに対して申し訳ない、というのとも違って、大人としてこれでいいのかという社会常識的な見方を自分にあてはめているようだったりする。けれど、これは想像だけれども、仮に働いて無職から脱して仕事をするようになったとしても、「今」を良しとできないのではないかと。また仕事をしたらしたで、この仕事でいいのかとか、この生活スタイルでいいのか、などと、またしてもうだうだ悩んでしまいそうな気がする。あぁ、そうか。結局、今を良しとして「これでいい」と思えなければいつまでも悩み続けるんだな、などと仕事さえしたことがないくせに一人前に想像してみたりする。
さらに結婚していないこと、つまりはパートナーがもう40歳にもなるのにいないことについても焦りを感じ始めている。このまま50代、60代と駆け抜けていったら気が付いたらおじいさんになっていて、あとは死ぬだけなのではないか。そんな一抹の不安も襲ってくる。
他にはやはり文筆業へのほのかな憧れもあることにはあって、その道でやっていけたらないいなと思う反面、何もそこまでして自分の思想なり信条なりを世間に広く拡散しなくていいから、みたいな冷めた目も同時に持ち合わせている。
ここまでいろいろとわたしがうだうだ考えていることを並べてみた次第だけれど、あなたにとってはどうでもいいことで退屈なのかもしれない。でも、どうか自分の身に当てはめてというか、置き換えて考えてみてほしい。すると、この「これでいいのか?」という問いがすごくシビアだということが分かるはずだ。
「これでいいのか?」はまるで影か何かのように常について回るものではないかと思う。わたしの場合だったら、ヨガをする、お料理をする、読書をする、執筆をする、といった活動や、日々の何気ない暮らしだったりするわけだけれど、そのわたしの姿に必ずつきまとってくるのがこの「これでいいのか?」なのだ。何をやっていても、それを考えないようにしようとしてもこれはつきまとってくる。ストーカーよりもたちが悪いものかもしれない。この自分を客観視しようとする第三者的な目はとてもクールで、絶えず自分に警告とまではいかなくても、冷めた視点で物事を見させようとしてくる。
「これでいいのか?」への答えは「これでいい」あるは「これでは良くない」しかない。今のままでいいのか、それとも変革を起こして変えていくべきなのか。その二者択一だったりする。
と、ふと以前ラジオで耳にしたこんな言葉を思い出した。「自分の選んだ道が正解」。実にシンプルな言葉だ。何かを選ぶというのは道を選ぶことであって、それがどんな道であろうとも正解だということなのだ。考えてみるまでもなく、みんな誰しもがより良く人生を生きようとしている。少しでも良くなりたい。そのためにはいい道を選びたい。そして、いい人生にしたいものだと思っている。それは疑いようのない事実で、誰も悪くて劣悪な人生なんて望んでいない。これはわたしの言うところの影である「これでいいのか?」を払拭とまではいかないまでも気にしないようにする考え方だと思う。たしかに、ああすれば良かったかもしれない、こうすれば良かったのでは、などという思いは自然とわいてはくる。けれどもあえて影を見るのをやめて、それよりは自分の影や後ろではなくて前を見て進んでいく。自分の影を自分から切り離して、そして自分自身の歩んできた道、つまりは過去をもすべて良しとする。うじうじ悩んで「これでいいのか?」などと言っていても仕方がない。そうではなくて「これでいい」、「正解なんだ」と自分に言い聞かせる。そんなあり方。
これでいいと思えるかどうか。自分自身のこれまでの人生をすべて良しとできるかどうか。これは大きなことだと思う。これができるかどうかにかかっていると言ってもいいのではないか。常に「これでいいのだろうか?」という不安や迷いを抱えながら、そうしてうだうだやっていくのか、それともスパッと「これでいいのだ」と自分自身の迷いを断ち切るのか、すごくあり方として違う。不安と迷いを抱えていわば怯えながら生きる人生を選ぶのか、自信を持って胸を張って「これで良し」と生きていくのか。まさにわたしの場合は分岐点に来ているのかもしれない。
わたしは去年の10月の終わりからアシュタンガヨガを始めた。週3で始発の電車に乗ってシャラ(*シャラとは道場という意味)へと通う日々が続いている。すごく充実していて張り合いがあって、帰りの道ではすがすがしい気持ちになっている。やって良かった。始めて良かった。思い切って始めて本当に良かった。そう思っている。でも、それすらも「これでいいのか?」と問うことはできる。お金がかかっているけれど、これでいいのか? それだけのお金があれば他の習い事だってできるのに、これでいいのか? などと問うことはできる。そう、このようにどんなに望ましい出来事や好ましいことであっても「これでいいのか?」という影はついてくるのだ。そして、わたしに「本当にこれでいいの?」とネガティブな気持ちを与えてくる。だから、わたしはそれに「これでいい」と答えた方がいいように思う。いや、「これでいい!」と言うことができなければ、いつまで経っても、いつになっても、いかなる状況になってどこで何をしていても不安が消えることはない。とは言っても、何も「これでいいのか?」という自分自身の心の声を完全に無視して突っ走る方がいい、などと言いたいわけではない。そうではなくて、そういったブレーキをかけようとする「これでいいのか?」という自分の冷静な声に耳を傾けつつも冷静に合理的に対処していくのだ。わたしの場合ならヨガに結構お金がかかっていることについてはその他の出費を抑えるなどして対処すればいいわけだし、他の習い事をする可能性を失っていることについても「一番これがやりたかったのだからベストな選択なんだ」と答えることができる。目の前が崖になっていて進んだらもう真っ逆様という状況であるのに、それでもそれを止めようとする「これでいいのか? やめた方がいいのではないか」という警告を無視することは賢明ではない。だから、闇雲に突っ走るのではなくて時には慎重に進もうとすることだって必要だ。現にわたしはアシュタンガヨガのシャラへ通うかどうか考えていた時に金銭的なシミュレーションは一通りしている。毎月いくらかかって、年間だといくら。それが5年でいくら、10年でいくら、などと、5年、10年なんて続くかどうかさえ分からない状況なのにそのことさえも想定してみたのだ。だから、もう必要な計算はしている。ただやってみたらヨガの費用以外の生活の出費が何だかんだかさんでいて思い通りにならないことに直面させられているだけで、それさえ何とか欲望を減らして質素倹約できれば、という話だったりする。
わたしの人生これでいいのか? 後悔しないか? 先のことは分からないから、もしかしたら後悔するかもしれない。今選んだ選択が後々痛手として予想外に襲ってくるかもしれない。でも、それすらも自分の意志できちんと決めてこれたのだとしたらちゃんと責任を持つことができる。自分があの時、ベストの最善だと思って選択したのだからと思える。それを何となく決めたり、誰かがこう言っていたからみたいに流されて決めたりしていたら、良しとすることはできない。もっと言ってしまえば、今自分が選択したことがどのように作用してどのような結果をもたらすかということは予想できない。だから、最善だと思ったことをやっていくしかないのだ。それでいい結果が出ればそれは良し良しだし、悪い結果が出ても受け止めることができる。そうか、自分が最善だと思うことをやっていくしかないんだな。
バカボンのパパみたいに「これでいいのだ」と思いつつやっていきたい。それだけが、それだけが今のわたしを含め、すべての人に可能なことなのだから。Do your best!!
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。