生きてる

いろいろエッセイ
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 朝、目が覚めた時、まっさきに思ったこと。「良かった。まだ生きてる」。
 今日は夢のお告げによるとわたしが死んでしまうという日。皆様の無関心(アクセス数、少ないですねぇ)とはよそに星家ではそわそわと落ち着かない時間が流れております。
 昨日はもう最後の夜になるかもしれないということで、下ネタ満載のはしたない雑文をこのブログに載せましたが楽しんでいただけましたか? 「最低。もう星さんの人格疑っちゃう」。ええ、たしかにそうかもしれません。最後の夜に発射だ何だのって本当品がないですよね。品格がなく、人格さえも疑われて当然なのであります。しかし、あれがわたしが死ぬかもしれないと追い詰められた時のリアルな姿。射精で人生始まって(受精して誕生)射精で終わるってなわけなのです。
 生きてる。生きているということがこんなに、これほどにありがたいって思ったこと、今までなかった。事あるごとに神様生かしてくださりありがとうございます、と感謝してきたものの、それでもここまで生きていることの尊さを感じたことはない。祖父母の最期を見届けているから、生きているってありがたいことなんだ、ってことは分かっているつもりでいた。でも、自分のこととして、自分の話として「あぁ、生きているって素晴らしい」なんて思えたのは、しかもここまで強烈に思えたのはこれが初めてだ。
 もしかして、もしかしてだけれど、おそらく今日わたしは死なないで生き延びる。おそらく死なないで生きている。そして、2月18日を乗り越えて無事に19日を迎える。そんな気がしてきた。でも、これから今日、何が起こるのかっていうのは分からないから気が抜けないけれど、もしかしたらこの気付き(生きているのがこれほどまでに素晴らしく尊いということ)を与えて新たに生まれ変わらせるために今日死ぬということ(古い自分が死ぬということ)を神様は夢を通してわたしにお伝えになったのではないか。うむ、そんな気がしてきたぞ。わたしが肉体的に死ぬのではなくて、精神的に死に新たに生まれる。それだからこそ、今日死ぬというお告げがなされたんじゃないかな。この考えどう? こう考えるとしっくり来るんだけど。と言いつつも本当に死んでしまって夢のお告げは本当だったってことになるかもしれない可能性がゼロになったわけじゃないから、まぁ、そこんところは19日を迎えてからでないと分からないことだけどね。
 ただ今、2月17日9時40分。まだ生きております。神様、どうか生きながらえさせてください。どうかあなたのもとへと召さないでください。よろしくお願いします。
 でも、これほどまでに生きていることが当たり前のことではなくて素晴らしいのだと思っているのって新たに生まれているってことじゃないか。古い自分に死に新たに生まれる。わたしにとって今日は第三の誕生日であって(第一は自分の誕生日、第二は受洗した日)、聖なる聖なる日なのかもしれないな。洗礼を受けた日も生きていることっていいなぁって思ったけれど、今日ほど鮮明に強烈には思っていなかった。
 今日、2月18日を無事に生き延びて肉体的に死ななかったとしたら、おそらく精神的死んで新たに生まれたということなのでしょう。それに今回のことを通して当たり前に生きてふつうの生活ができるってことが当たり前ではないと気付けた。母と毎日他愛もないことで笑い合ったり、猫のルルとただ一緒にいてその場にたたずんだり、ヨガをやったり、料理をしたり、お勉強や読書をしたり。その当たり前のことが死を前にして突然キラキラと輝きだした。何て素晴らしい時間だったのだろう、と。これこそ古い自分に死ぬということではないかと思う。
 おっと、30分がたってタイマーちゃんが鳴りました。タイマーに何か名前でも付けようかな。なんてね。生きていましたらまたこのブログ、更新しますね。ではでは、またね。あなたの一日が良い一日でありますように。感謝、感謝です。

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