生かされている

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 この社会には安全な人とそうでない人がいる。受容的な人がいる一方で何事に対しても批判的にしか受け取れない人がいる。Yさんとコメント欄でやりとりをしているとそんなことを考えてしまう。
 わたしは彼が苦手だ。何ていうか、相手のことを素直に認めることができない、この場合わたしを手放しで受容して肯定してくれない彼が苦手なのだ。でも、彼は要らんお節介だと言うだろうけれど、だからと言って「わたしの前から消えてください」とか「いなくなってください」というのも気が引けるのだ。偽善と言われるのはもちろん承知の上で、何だかそんな相手を批判的にしか見ることができない彼がかわいそうというか、とても気の毒に思えてしまう。ね、要らんお節介でしょう? もしかしなくても彼は仕事とか生活とかがうまくいってないんじゃないかな。これもお節介な心配だけれど、彼は心が満たされていないんじゃないか。もし、仕事も生活もありとあらゆることがうまくいっていたら人のことなんてとやかく言わないし、そもそも言う気だって起こらない。だから、不満があるのだろう。ま、うまくいっていない人というところだろうか。
 わたしに批判的な言葉をぶつけてくるYさん。なぜだろう。何が彼にそうさせるのだろう? いわゆる同族嫌悪というやつですか? あるいは星だったら何を言ってもあたたかく包んで対応してくれるだろうっていう甘えですか?
 わたしはね、マザー・テレサじゃないし、おそらく一生かかっても彼女のようにはなれない。分かっている。分かってはいるんですよ。人類皆兄弟ですべての人が神の子だっていうことはね。それにあなたの前に現れる重荷を抱えている兄弟姉妹がイエスさまなんだってこともね。分かっている。けれど、わたしにはできない。聖人君子になれないわたしはそこまで高尚に振る舞うことができないんだ。どんな批判を受けても、暴言を受けても、悪態をつかれても、それらをすべて愛に変換して相手にお返しする。わたしはそんな愛の変換器とはほど遠い。最近は少し余裕が出てきて周りを見回すことができるようにはなってきたものの、それでも自分のことで頭がいっぱいな時だってよくあるんだ。そんな欠けだらけの土の器であるわたしには完璧な対応などできるわけがなく、凡人らしく褒められては気分が向上して、批判されたりけなさりたりすると気分が沈む、という不安定なアップダウンを繰り返している次第。
 だからね、Yさんの批判的なコメントであっても承認してこのブログに表示させているだけでもすごくわたしなりには頑張っているんですよ。で、そうしてコメントを載せても対応の仕方がなってない。社会常識がないなどと批判される。たしかにわたしには社会経験がほとんどないから社会常識なんてものはないのかもしれない。でもね、自分のブログくらい自分の好きなように運営させてくださいよ。少なくともわたしはYさんを今回は排除していない(以前にはもう本当に嫌になってコメントのやり取りも全部承認を解除して載せないようにしたけれど)。わたしに関わっているのは時間の無駄だと思いますから、お好きに去りたいのなら去っていってください、などと記事には書いているけれど、それでも「いなくなれ」「失せろ」などとは一言も言っていない。イエスさまが言われた「敵を愛し迫害する者のために祈りなさい」の精神ははるか彼方でかすんでいるくらいだけれど、これでもわたしはその方向性を自分なりに目指しているのだ。排除をしないという具体的な試みをすることによってね。
 基本的に人は相手から批判されたり、けなされたり、攻撃されたりすると身構える。そして、反撃するか逃亡する。少なくとも自分を批判してくる相手と仲良くしたいとは誰も思わないし、だいたいつるんで仲良くなるのは類は友を呼ぶの言葉通り似たもの同士だ。だから、というかわたしにはYさんの意図がよく分からない。わたしと仲良くなりたいの? だったら批判的なコメントなんかしていないで仲良くなれるように相手を受け入れた方がいいと思う。それともわたしを支配して従わせたいの? わたしをコントロールしたいの? そういう態度を取るのであれば北風と太陽のお話のごとく、わたしはもっと自分の上着をしっかりつかんで離さないと思うよ(わたしを従わせようとすればするほどわたしは反発して従わないだろうね)。またまた、そうではなくて自分が星よりも優れている人間だと認めさせたいの?(これも相手をコントロールしようとすることと似ているけれど)それを誇示したいの? まぁ、そう思わせたいのであればそういうことにしておきましょう。でも、「だから何?」ってな感じですけどね。以上、考えられる意図をあげたけれど、本当Yさんって謎なんだよな。自分の時間を割いてまでしてわたしに関わろうとする理由が本当了解しかねるんだ。わたしにこだわる理由が本当分からない。
 でも、もしかしたらだけれど彼は愛に飢えていてわたしに承認してほしいのかもしれないな。「Yさん、すごい」「Yさん、素晴らしい」「Yさん、頭いいですね」「Yさんのお人柄が素敵です」なんて大絶賛の褒め言葉をわたしから聞きたいのかもしれないな。満たされない承認欲求。それを相手を批判して優位に立つことで満たそうとしている。心理学的なことはよく分からないけれど、何だかその可能性が濃厚だな。
 実はだけど、わたしはYさんをこの記事でもって口汚くののしるつもりでいたんだ。けれど、今朝、散歩をしたら何だかそういうのが馬鹿らしくなった。今日は冷たい風が吹いていて、田んぼが続く道をわたしは歩いていた。上を見上げれば青空が見渡す限り広がっている。それはどこまでも広がっていて本当に息をのむほどだった。それを見ていたらね。あぁ、この大空、もっと言うならこの大きな一つの地球のもとで生きとし生けるものたちが命のドラマを繰り広げているんだなぁって感極まって涙が出そうになったんだ。わたしも、母も、精神保健福祉士のWさんも、教会の皆さんも、昨日入院した祖父も、顔を知らないけれどYさんも、そして会ったこともない80億もの人たちがみんなこの大空の下に生きているんだってことを言葉ではなく散歩しながら実感をもって感じることができたんだ。それを思ったら、その人のことが気に入ったとか気に入らないとか、そんなことは小さなことなんだなって思えてきた。それよりも今朝散歩をしながらひたすら思い巡らせていた「生かされている」、それもわたし一人ではなく命あるものすべてが、この地球上のすべての生き物たちが生かされている。そのことを思うと地球よりも大きな神様のみ手の中にいるってことが迫ってきたんだ。全宇宙を統べ治めておられる神様のみ手がね。
 急に話が大きくなって唐突だったかもしれないけれど、自分が近視眼的な状態に陥っていたことに気が付いた。もちろん、狭い世界のことはそれはそれで大事にしなければならない。でも、大きく見渡すことも時には必要なんだ。そして、大いなる存在。わたしの場合、神様を感じる必要がある。神様の大きなみ手の中でわたしたちは毎日ドタバタ劇を日々繰り広げている。そのドタバタ劇しか見えなくなってしまうのがわたしを含めた凡人なのだけれど、それでも自然とふれあい、神様を感じていけたらと今日強く思った。
 これからも面倒くさいYさん(語弊はあるかもしれないけれど)とのやり取りは続くのかもしれない(去っていきそうな気もするけれど)。でも、何だか少しだけその面倒くささを時には嫌になり怒り心頭しながらも愛おしめるのではないか。って無理無理と思いつつも少しだけ違う風景が広がってきたような気がする。ま、なるようになるさ。ぼちぼちいきましょう。

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