ヘブライ語の難所の前で

ヘブライ語
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 ヘブライ語の学び、ぼちぼち続けております。そんなこんなでもう独学中の日本ヘブライ文化協会『ヘブライ語入門』も「第7課 前置詞」。
 ここだ。ここなのだ。何がここかと言えば、前回挫折して勉強を中断してしまったところが。だから、わたしにとっては大きな壁というか難所なのです。ここを乗り越えることができるか。クリアーすることができるか。もちろん、テキストの内容は変わっていなくて(当たり前だけれど)、変わっているとしたら今のわたしがその当時のわたしとは違うことだろうか。ともかく、前回折れたところまで昨日進んだのだけれどやっぱりムズいのだ。難しいのだ。というわけでどうして難しいのかちょっと考えてみたいと思う。
 語学のテキストというのは基本、前出てきた内容は完璧に理解してマスターしているものだという前提で書かれている。だから、少しでも前出てきた単語を覚えていなかったり、文法事項で理解があやふやなところがあると、ついていけなくなるのだ。語学って言うまでもなく積み上げ式の勉強で、前のところがしっかり積まれていないと、積んでいけないようになっている。なかなか厳しいですけど、でもこれで折れていては独学は無理だ。折れずにやっていく道を模索していかなければならない。というか逆に言ってしまえば、一歩ずつ足もとを固めながら牛歩の歩みで、着実に着実に確実に進めていく。そうすれば、テキストについていくことができる。何だ、そんなことか。ってそれが難しいんですけど、と一人ボケツッコミをしながら、うーん、でもやっていくしかないんだなって思う。語学に完璧主義を持ち込むのはどうなのか、その賛否はわたしには分からないけれど、ある程度は完成度を高めて9割くらいの理解を目指さないと厳しいのではないか。一人ヘブライ語の参考書と格闘しながらそんなことを思うのだ。
 だから、わたしが第7課を難しいと感じるのであれば、それまでの内容であやふやだったり、理解が不十分なところがあるということを意味する。でも、6課までは固めてやってきた。だから、問題があるとしたら7課に入ってからの内容だろう。まだ単語カードに書き出した単語なども7課には入っていなくて6課の終わり頃だしね(文法をやりながらそれを単語カードが追いかけている感じ)。
 次に、なぜ難しいかと言えば、急に文章が長くなってきた。本当これはまさに急な話で、今まではあっても一文の単語が3つくらいだったのに、急に4つとか5つになったのだ。初学者、それもほとんどヘブライ語のことが分かっていない初学者にとってこの単語数の増加は本当に手厳しい。文章を作るには、単語を並べる必要がある。そう、その並べ方がよく分からないのだ。しかも、急に何の前触れもなく単語数が急増。これはビギナーにやさしくないし、やはりこの第7課あたりから脱落する独学者が多いのではないかと思う。これまでは名詞とか形容詞とかその単数形、複数形とやってこれたけれど、この急勾配にはやはり戸惑ってしまう。
 同じ場所では挫折したくないと心の底から思う。けれど、第7課、本当に難しくなってきた。前回折れた時にはまったく歯が立たなかった。もう難しすぎてテキストを開くのさえ苦痛そのもので、ほぼチンプンカンプンみたいなそんな感じだったのを思い出す。でも、今回は違う。わたしにとっては登ることが困難な急斜面であることに変わりはないのだけれど、今回は単語カードという強力な道具だってあるし、ここを乗り越えるために基礎体力だって高めてきたのだ。今回は違うのだ、と豪語できるものならしたい。が、現時点では前回挫折したあたりのテキストを読んだ限りではまだ理解できない。まだその箇所にぶち当たってからまだ今回は2日目。2日目と言いながらもまったく歯が立たないという感じではない。さらに体力を高めて、基礎を固めればかろうじて理解することができるかもしれない。そんな希望的観測が起こってくるような感じなのだ。ということはいわば筋トレのような日々の単語カードの学習によって強くなってるってことなのかもな。
 1日で無理だったら3日かけよう。3日でも駄目だったら一週間かけよう。それでも駄目だったら二週間。それでも駄目だったら分かる人に質問しよう。少なくともここは自分が前回できなかった難所なのだ。挫折して嫌になってヘブライ語をやめてしまった険しい急勾配なのだ。だから、時間がかかってもいい。時間をどれだけかけてもクリアーできれば、それは自己新記録じゃないですか。明らかに自分の限界を打ち破ったってことじゃないですか。逆上がりができなかったのができるようになることみたいなもの。それってすごいことなんだ。もちろん、できなかったこと、理解できなったこと、分からなかったことはそう簡単にはできるようにはならない。やはり、それは自分にとっては難しいところなのだから。
 あきらめない。というか、今回はあきらめたくない。何が何でも分かるようになるんだ。できるようになってやるんだ。
 ヘブライ語、やっぱり一筋縄ではいきませんなぁ。でも、だからこそやり甲斐があるんだ。簡単なことだったらクリアーしてもあんまり達成感もなければ喜びもないだろうし、それだと張り合いがないとも言える。
 自分の目の前に難所が登場した時、それを自分が成長できるチャンスだととらえることができるかどうか。「どうせ自分にはできないから。無理だから」とあきらめてしまうのではなくて、ぼちぼち、ぼちぼちとできることをやりながら果敢にチャレンジしていきたいなぁ。あきらめなければきっと時間はかかるかもしれないけれど、いつかはクリアーできるはず。逆上がりだってそうだった。何回も何回も失敗してできない現実を直視させられながらも、それでもあきらめなかった。もちろん、すべての子が逆上がりができるようになるわけではない。でも、あきらめたら100%できるようにはならないし、そこで終わってしまうのだ。
 わたしにとってのヘブライ語の難所であるこの急勾配もクリアーしてしまい、そして後に振り返ったとしたらおそらくいい思い出となっていることだろう。そして、あの時、折れそうになったけれど諦めなくて良かったなと思っているに違いない。わたしも今、ヘブライ語のアレフベートを死に物狂いで覚えようとしていた頃のことを思い出すと、諦めなくて良かったなって本当思う。
 やめることはいつでもできる。やめたくなったらやめればいい。しかし、そうであるからこそ、それでもやめずに続けて挑戦することには意義がある。いつやめてもいいのに、それでも続けている。すごくこれって価値があることではないかと思うんだ。だって、やめてもいいわけなんだからね。
 ヘブライ語の旧約聖書を開く。そこにはびっしりと小さな文字でヘブライ語が印刷されている。これを読めるようになる? それだったら並大抵の努力ではダメだよ。そんなことを旧約聖書から言われているような気がした。まだまだわたしのヘブライ語は赤ちゃん言葉。大人の本の旧約聖書まではまだまだたどり着けそうもないけれど、あきらめずにチャレンジしていきたい。あきらめなければ道は続いていきますからね。一歩ずつ、一歩ずつ。道はきっと開けていく。

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