昨日、不調だったこともあって、今日の教会の聖書研究会に参加できるかどうか不安だった。でも、参加することができ、有意義な時間を持つことができたので、その中で特に印象に残ったことなどをいくつか書いておきたいと思う。
まず、すべてを預けることについて。これが簡単そうで難しい。口で言うのはたやすいけれど、なかなかこれができない。そんなことを牧師が言っていた。すべてをお預けします、と預けきることができないのだ。それはわたしも薄々どころか強烈に感じている。なかなかすべてを放棄してお任せすることができない。どうしても自力に頼ってしまって、自分の救いを自力によって促進させようとしたりしてしまう。でも、キリスト教の救いというものはいろいろ教派によってそこのところは異なるものの、自力ではなくて他力なんだ。救っていただくんだ。だから、任せてお委ねする。それで完結。何も修行も必要なければ、特別な精進が必要なわけでもない。絶対他力であって、人間の力の入り込む余地などはない。
すべてを預けることってこわい、と牧師は言う。どうしても自分で保険をかけて救われるための善行なり何なりをしないと安心できない。つまり、確信がほしいとも言える。すべてを預けて、任せて、お委ねして、それで大丈夫だという確信が。だから、そんな時には誰かの言葉がほしくなる。自分を安心させてくれるような誰かの言葉が。それがクリスチャンなら聖書の御言葉ということなのだろう。任せても預けきっても大丈夫ですよ。そんな言葉をわたしたちは聞きたいと思うのだ。
それから、仏教では難行と易行があるのだけれど、易しい道を行く念仏だけをとなえればいいという道を歩んでいる人を難しい道を歩んでいる人たちはそれではだめだぞ、と言う。そして、その両者の間でどっちが優れているかという言い争いが起こる。でも、それこそ仏法の破壊であり、お釈迦さまの教えをふみにじることなんだというのが今日取り上げられた内容。論争する。そのこと自体がもう煩悩が起こっていることなんだ。だから、もうすでにそうすることで煩悩が起こるわけであって悟りを得た人の態度ではないし、そうした悟りからはかけ離れたしょうもない態度だとも言える。たしかにその通りで、悟りを得た人ならきっと「あなたは自分の考えが正しいという思いに執着しているから悟りは遠いと思います」と柔和に言うことだろう。悟った状態とは無分別のあるがままを受け入れるような状態で、そんな小賢しい議論をむきになって戦わせているような状態ではない。それに神様も仏様もそんなスケールの小さい争いをしている両者を包摂してあたたかく迎え入れてくださるはずだし、それだからこそ神様、仏様なのだと思う。人を分け隔てせず、この場合だったらどんな修行をしていようとなかろうと、まるで太陽のように正しい者の上にも正しくない者の上にもあたたかい光を降り注いでくださる。偉大な存在が「お前は嫌な奴だから切り捨ててやる」などと言うだろうか。たしかに旧約聖書の神様にはそういった面があることは認めざるをえないものの、それが神様の本質ではないと思う。神様っていうのはあったかくて懐の大きい優しいお方。何だか今日の集会での牧師の話を聞いていたらそんなことをわたしは思ったのだった。
難行で救われる人はほとんどいない。だったら、易行で救っていただくしか残された道はない。衆生の救済はそうでなくては、一部のエリートしか救われないことになってしまう。ここんところはキリスト教でも仏教でも二つの考え方に割れて対立しているところで、難行派の考えによればおそらく最高位に到達することができなくても、向上する最低限の努力はせよ、ということになるのだろうと思う。何にも努力すらしようともしないで、救っていただくだけ。南無阿弥陀仏。アーメン、感謝です、ではダメなんじゃないかというのがその主張だ。
一方、易行派はとてもではないけれどわたしどもにはそんなことは無理です。ただ神様、仏様にすがるだけです、と申し開きをする。これが難行派の怒りを買うことは必死なことは言うまでもないことで、お前らも努力しろよと迫る。
どちらが正しいのか。上下があるのなら、どちらが上でどちらが下なのか。それは神様、仏様に聞いてみなければ分からない。もしかしたら、「こっちが上だよ」な~んて言うかもしれない(笑)。などと冗談はそれくらいにして、ともかくどちらが上とか下とかいう根拠は何もない。そこにあるのはただ人間の思考だけで、思いなしだけでそれには絶対的な根拠はないのだ。ただ人間たちがお互いに両陣営を張って争っていて、ああだこうだ、ああだこうだと言い合っているだけ。根拠があることにはあるけれども、それは人間の根拠であって絶対的なものではないんだ。
あと他に牧師が言っていたこととしては、中途半端にしか学んでいない、学べていない人ほど自分が正しいと主張して譲らないらしい、とのこと。たしかに中途半端な奴ほどよく吠える。それってわたしのことかも、などとそれを聞きながら冷や冷やしておりました。ともかく、本当に学んだ人は謙虚なんだ。善悪とかそういうものにとらわれずに、優劣などという考えにも縛られることなく、あるがままにそのことを見つめることができるようになる。それが学ぶってことらしいのだ。つまり、無学の人、この場合、学ぶべきことをすべて学び終えた人というのは達観しているものなのだ。あぁ~、その話、耳が痛いな。わたしはガーガーガーガー、うなりたてるけれど、それも中途半端な学びの賜物ってわけか。謙虚さを知りたいな。そして、あるがままに物事をへだたりのない目で眺められるようになりたい。
で、キリスト教の信仰において最も大切なことがあると牧師は言った。それは「わたしたちが神の子の一人とされていること、その一点」。たしかに。うむ。洗礼を受けてクリスチャンになりました、ということはもうわたしは神の子の一人とされているっていうことなんだ。だから、神様に感謝して神様にふさわしい生き方をしていかなければならない。神様に唾を吐くような生き方はしてはならないのだ。この言葉、本当襟を正されるな。
そして、わたしたちは救われていることを確信した瞬間もうすでにその瞬間に救われている、という牧師が説明してくれた「今」という考えにもわたしは心打たれたな。死んだら救われるとか、どこか遠い未来において救われるんじゃなくて、救われたと確信した瞬間にもう救いの内にある。どこまでも救いとか幸せを未来に先送りするのではなくて、今なんだな。今、救われていて、今、幸せで、今、満たされているってことなんだな。何だかそんな喜びを失っていたわたしにはその考えがとても新鮮に響きわたってきたな。逆に今、救われていなかったらいつ救われるんですか、てな話でもあると思う。未来、未来、先、先、とにかく先のこと。で、いつまで経っても、その今がやってこない。いつまで待ってもひたすら先があるだけで今はやってこない。それって救いって言えるのだろうか、ということになる。今、救われて、今、幸せ。だからそれが救いなんだろうな。つまり、今ここですでに与えられている恵みに目を向けること。たしかにそうだ。
また、人に負けることの意義も今回教わった。人に負けることが相手に通じていく道らしいのだ。人を打ち負かして力でねじふせて、ではなくて争いがあったらきっぱりとその正しさの綱引きから身を引いて、綱から手を放す。それが秘訣らしいのだ。そうすれば、相手ももう綱を引っ張り続けることができなくなって丸く収まる、と。自分が真理だと思うことの絶対性を主張するのではなくて、そんな主張はせずにただただ真理に謙虚に生きていく。その姿勢こそが尊い証となり、かえってその方が人々の心を揺り動かせる。しかも、揺り動かそうとか揺さぶろうとか思っていないところがミソだとわたしは思う。そんな見せびらかしではなくて、ただただ背中をそれも自分の信じた生き方を黙々と貫いているだけでいい。そうすれば、それに共鳴する人が出てくる。が、それすらも狙ったものでは決してない。うむ、しびれるな。かっこいい~。自分の前でラッパを吹き鳴らさずにはいられないわたしの場合、一皮どころか十皮くらいむけないとおそらくその境地にまでは達せないな。見せびらかしの星さんだからね。星よ、謙虚になりなさい。
牧師はさらに言う。「自力を極めた人が見える地平が他力だ」と。何にもしないでただ他力だと言っているわけではなくて、過去に他力の道を見出した偉人たちは自力の苦闘の末に他力にたどり着いたのだ。ルターしかり。法然しかり。親鸞しかり。そこに他力の思想の凄みがあると言っていいと思う。限界までやったがゆえに他力にたどり着く。いや~、わたしの場合、まだまだその境地にまでは到達できていませんな~(と言いつつこれでもいっぱいいっぱいだけど)。
で、最後の質疑応答の時間に星さん発言したのよさ。今の地球上の戦争とかを宇宙論的に眺めると、こんなちっぽけな惑星のわずかな土地をここまでが俺らのものでなどとやっているのがスケールが小さいんじゃないか、ってね。それよりも同じ地球人同士なんだから、仲良くやっていく道を模索していかなければならないのに、どうしたものでしょうか、ってね。これはその集会の時に言わなかったことだけれど、宇宙人が地球侵略にでもやって来ない限り、地球人は同士で争うことをやめないんじゃないかなって思うよ。でも、ウルトラマンの世界みたいにバルタン星人が攻めてきましたとか、本当こわいから勘弁してほしい。SFとか特撮だけの話にしておいてほしい。でも、宇宙人が地球に攻めてきたらきっと地球防衛軍として総力を上げて立ち向かうことでしょう。となると第三次世界大戦どころか今度は地球防衛のための宇宙戦争になるわけだな。スケールが大き~い、星さんたら。
というわけで集会で学んだこと、盛りだくさんで今日はお送りしました。どうでしたでしょうか? でも、いかんせん疲れたな。って4000文字超え取る~。てなわけで次回も乞うご期待。ってこんなに長くは書けないと思うけどね。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。