誕生日再考

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 地域活動支援センターの相談を利用するようになったことをきっかけに、そこのスタッフの精神保健福祉士のWさんとはつながっていて、メールをやり取りしたり、電話でお話しさせてもらっているわたしである。と、もう1年くらい前になるだろうか。Wさんと誕生日の話になって、その時Wさんの誕生日を聞いたんだけれども、しっかりメモをとるなどしていなくてそれから分からなくなってしまっていたんだ。でも、11月、ということだけはかすかにわたしの記憶に残っていて、そういうわけで最近Wさんにお誕生日は11月のいつですか、ってメールでたずねたんだ。すると7日という。
 さらにWさんからのメールには他にも、誕生日は母親に感謝の気持ちを伝える日として今まで大事にしてきた、みたいなことも書いてあってわたしは自分が、自分が、「わたしの」誕生日なんだと鼻息を毎年荒くしていたことを反省させられたのだった。そして、Wさんは去年そのお母様を亡くされたとのことで、わたしにはそんな素振りを微塵も見せなかっただけに何だか申し訳ない気持ちにもなってきた。全然わたしがWさんを気遣えていなくて、また誕生日と同じようにわたしが、わたしが、わたしの話を聞いてよモードになってしまっていて、彼女の話を親身になって聞いてあげることができていなかったのだ。
 そういうわけでお母様を亡くされたWさんは、今年の誕生日には写真に話しかけたいと思います、とメールを締めくくっていた。
 Wさんに対してどこか申し訳ない気持ちを抱きながら、誕生日に母親に感謝の言葉を伝えるというこの話をわたしの母にしたら「いい話だね。本当、いい話」としきりに感心していた。さらには「Wさんって素晴らしい人だね。本当素晴らしい」と母のWさんのイメージ、好感度と言っていいのだろうか。それはまた急上昇していったのだった。
 男がどんなに逆立ちしてもできないこと。それは妊娠して出産することだ。もしかしたらだけれど、Wさんがご自身のお母様に感謝の言葉を誕生日に伝えるようにし始めたのは、Wさんが母親になって子供を産むという体験をしてからかもしれないな、と勝手ながら想像したりする。違うかもしれないけれど。
 子供を産むってどんな感じなんだろう。男にとってはそのことは永遠の謎で、あくまで経験した女性の体験談をもとに想像をふくらませるしかない。9ヶ月もの間、大切に大切に自分のお腹の中で育み、常に気に掛けながら毎日を生活する。そして、劇的と言ってもいいような出産。
 自分がいまここにいるのは、母親が命をかけて自分を産んでくれたからだ。そんな意識や思いがWさんの中にはしっかりとあるのだろう。出産は命がけの人生におけるビッグイベントであって、命を落とす人だって医学が発達した現在でもゼロではないのだ。まさに命がけの営み。それが出産なのだ。
 ここまで母親の立場から誕生日を考えてきたけれど、忘れてはならないのは父親がいなければどんなに母親が頑張っても子どもは誕生しないということだ。父親だって奥さんが妊娠している間はハラハラしたり、そのことを気に掛けているだろうし、どうなることかと一部始終を見守っているに違いない。父親と母親、その両方がいてはじめて子どもは生まれる。実際に産む女性側の負担が限りなく大きいことは認めるけれど、男性もいてこその子どもなのだ。
 そして、その命のバトンリレーを遡っていくと、両親、祖父母、曾祖父母……、とご先祖さまへと遡る。わたしに来るまでの間に、つまり人類が誕生してから何回、ご先祖さまたちの性の営みが交わされてきたのか。それはわからないけれど、連綿とわたしに至るまでひたすら生殖活動を繰り返してきたのだ。そう考えると、考えていくと自分を直接産んでくれた母親に感謝することは当然のこととしても、父親、祖父母、曾祖父母……(数多くのご先祖さまたち)へと感謝する対象はどんどん広がっていく。そのご先祖さまの一人が欠けてもわたしはここにいない、という厳然たる事実を突きつけられる時、何だか誕生日というものの持つ重みのようなものがわたしに迫ってくるのだ。それも壮大な命の歴史と言ってもいいようなものが。
 だから、わたしが思うに、誕生日というのはわたしまで命のバトンをつないでくれたすべての人たちに感謝する日と言っていいんじゃないか。そして、両親を含めたわたしに至るまでの人たちがわたしの誕生日を天の国から祝ってくれている。そう考えてもいいのではないだろうか。話が何だか大きくなってきて、まさに人類の歴史と比肩するかのようなわたしの誕生日。
 別にわたしはWさんの純粋な心優しい母親への感謝の思いを否定するつもりでこの文章を書いているわけではない。反論でも否定でもない。けれど、誕生日というものを考えていけばいくほど、母親はもちろんのこと、その感謝の対象となる人はどこまでもどこまでも広がっていくということを言いたかったまでだ。
 さらにその感謝の対象はどこまでもどこまでもほぼ際限なく広がっていくように思う。なぜなら、過去が1ミリであっても、小指1本であっても何かが違っていてはならないからだ。だから、歴史上の大きな出来事はもちろんのこととして、小さな出来事としてわたしのご先祖さまがある日にこれを食べてあれをしたという一挙手一投足も、その日のお天気も、風も、何もかもすべてがその日のようであり、そうした日々が過去にあったからこそ、今があり、今のわたしがいるのだ。だから、両親など自分とつながりのあるご先祖さまだけではなくて、すべてのものに感謝することへとつながっていくのだ。話が大きくなってきたよ。星さん、話が大きくなってきたよ。
 そして、忘れてはならないのが両親やご先祖さまを通して、神様がわたしを造ってくださったということ。精子、卵子などとメカニズムは明らかになってはいるけれど、最終的には神様のみ手によるものなんだ。だって精子や卵子だって、自分で日曜大工みたいに作ったものではないし、受精についても人工授精とかあることにはあるけれど、それだって受精するかどうかは神様次第なんだ。
 神様によって造られ、そして生かされているわたしたち。えてすると、神様に感謝する気持ちを置き去りにしてしまいがちだけれど、それは良くないな。誕生日はすべての存在に感謝し、かつ造り主であられる神様に感謝をする日。誕生日の祝い方はいろいろあるものの、感謝していけたらなぁと思うわたしなのであった。

 Wさん、誕生日おめでとうございます!!! すべてに感謝。

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