先日、と言ってもだいぶ前だが、作家の綿矢りさ氏が作家生活20周年ということらしく、新聞にこれまでのことやこれからの抱負みたいなことが載っていた。それを見て、すぐに比較してしまうわたしは、あぁ、わたしって全然ダメじゃん、などと思ったのだけれど、それは間違いだった。綿矢さんとわたしは1つ違い。綿矢さんの方がわたしよりも1コ下だったかと思う。かたや綿矢りさと言えば、芥川賞を取っていて、それからも作品をどんどん書かれていて、それはそれはビッグな一流の作家なのだ。
でも、わたしだって綿矢さんが20年を迎えたように、この20年生きてきたんだ。それを思い出させてくれたのが、新世紀エヴァンゲリオンのオープニングテーマの「残酷な天使のテーゼ」。そうだな、いつぶりだろう。この曲を聴いたのは。この曲はわたしにとって青春時代、特に高校生あたりの頃を鮮明にまるでありきたりの言葉で言えば、走馬燈のように思い出させるんだ。あの頃のわたしは碇シンジに完全に気持ちをシンクロさせていて、それは激うつ状態だった。なぜ生きるのだろう、生きなければならないのだろう、と思春期特有の悩みをこじらせていたんだ。だから、特に高校時代は本当にわたしの暗黒時代で、あんなに憧れて入学した第一志望の高校なのに惨憺たるものだったのだ。そんなわけで高校は球技大会以外、楽しい思い出なんて基本なしみたいな感じで(あと修学旅行くらいかな)、勉強についてはまったくやる気の片鱗すらもなかった。ま、赤点王子だな。中退しなかったのが不思議なくらいだよ。で、その頃、毎日のように気持ちを暗くさせながら聴き続けていたのが、先ほどの「残酷な天使のテーゼ」なのだ。その他にも強いてあげるなら、碇シンジが劇中で演奏していたバッハの無伴奏チェロ組曲に触発されて、その曲もよく聴いていたっけ。勉強もせず、ひたすらネットとゲームと音楽鑑賞の日々。先が見えなくてあの頃は本当に苦しかった。これがもしも続くのであれば、生きていたくないとさえ思っていて、とにかく苦しかったな。
わたしの20年は綿矢さんのものと比べて取るに足りないのかもしれない。綿矢さんから見たら、あるいは多くの人から見て全然何もやっていない平凡で退屈な人生なのかもしれない。でも、わたしはわたしなりに懸命に生きてきた。何もやっていないように見える人だって、その人にはその人なりの課題や葛藤や悩みなどがあり、それはそれは頭の中をいっぱいにして生きているものなんだ。
もし誰かがわたしの人生を「つまらないね」と酷評して否定してきたら、たしかにそれをひとまず受け入れた上で、「でも、それなりに山あり谷ありで充実してましたよ」と答えられたらと思う。「そういうお前の人生の方がわたしのよりもつまらないだろ」などと野暮なことは言わない。同じ土俵に立って戦う必要なんて最初からはなからないし、そんなことをしてもわたしの人生のこれまでが変わるわけではないんだから、まぁ、よしとさせてくださいな。
この20年、長かったような、でもあっという間だったようなそんな感慨に包まれている。もう高校を卒業してから20年くらい経つわけか、としみじみしてくる。20年。口で言ってみればそれだけのことだけれど、そこには重い重い説得力がある。長い長い時間の流れ。
わたしが綿矢さんの作家生活20年を聞いた時思った無力感。何もやってこなかったんじゃないか、と一瞬脳裏をかすめた考え。でも、何もやってこなかったとしても、わたしも綿矢さんも同じように20年という月日を生きてきた。何だかそれだけで、おめでとうって言いたい気持ちになってくるよ。別にこの20年で何か結果が残せたかとか残せなかったかとか、別にいいじゃん。生きるということをこの20年やってきたわけだからさ(生きることをやめることは死ぬことだよね)。わたしも綿矢さんも平等で等しい。たしかに綿矢さんの方が生産性という意味ではわたしの何千倍(?)レベルで稼いでいるけれど、同じように生きてきたという意味では平等だよ。上も下も、序列もそんなものない。だから、20年生きてきたけれど何にもしてこなかった人だって立派に生きてきたわけだから、そのことは誇っていいと思う。何かのチャンピオンになれなければ、存在価値がないとしたら多くの人が用無しだよ。でも、そんなことはなくて、人間の価値というものは、何かをやったとか成し遂げたとかそんなことから何も影響を受けたりはしないんだ。でも、新聞を眺めていると、何かをやったとか成し遂げたとか、そういったことをやたら賞賛する。大リーガーの大谷さんがこんな快挙を成し遂げたとか、誰々がこんなことをやってのけたとかね。そういうほめあい合戦はさせたい人たちにさせておこうじゃないの。それでいい気になってればいい。でも、大切なのはそこじゃないとわたしは思うんだな。たしかに大谷さんはすごいし、綿矢さんだってすごい。でも、そういうトップの成功者をちやほやするのではなくて、当たり前のことを当たり前にやっている人だってすごくない? 毎日家事をこなして三度三度のごはんを作ってくれる主婦(主夫)の人。これだって立派な仕事だと思うし、誰からもすごいって賞賛されないけれど、わたしは立派ですごい働きだと思うんだ。規模の上では数名の家族のごはんを作っているだけだ。でも、確実にその何人かの大切な家族を幸せにできているし、これはこれで意義がある。
これは何かをやっている例だけれど、何もやっていない人だってすごいと思うんだ。呼吸をして心臓を拍動させている。中には、生きていることが大変で、生きていたくない人だっているかもしれない。でも自ら命を絶たないで必死に生きている。それだって、いや、それこそすごいよ。
だから、みんなすごいと思う。この20年、みんな懸命に生きてきて形はそれぞれだけれど、みんな偉くてみんなすごい。そんな言葉を日本中に広めていきたいなとわたしは思う。何か突出した人ばかりがほめそやされる現代(というか昔もそうだ)において、このみんなすごいという意識は必要だと思う。生きていること。それはすごいこと。そしてみんなすごい。
わたしは「わたしなんてダメだ」とか「俺には存在価値がない」と言っている人にそんなことないと言ってあげたい。
綺麗事を言っているように聞こえる? でもね、わたしはみんなすごいって思うんだ。
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1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。