幸福な世界観

いろいろエッセイ
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 わたしは小説をあまり読まないほうなのだけれど、読むといつも驚かされることがある。それはあまりにも作家によって世界観が違うということだ。
 ある作家にとっては世界とはハッピーな場所で安心できる安全な場所。と思えば、ある作家はそれとは真逆な世界観を持っていて、世界とは混沌と混乱と破壊がはびこる醜悪な場所としてとらえている。はたまたある作家にとっては、世界とはとても不思議な場所でまさに不思議の国。
 同じ世界がこれほどまでに異なる様相を呈するのは、面白いとも言えるけれど、同時にこわさすらあるとわたしは思う。ある人にとっては天国でも、ある人にとっては地獄。同じ世界のはずなのに、見る人が変わればそれはたちまち色を変えてしまうのだ。
 最近、わたしが時々読む本に認知療法の本があるんだけれど、これによると世界というものは自分で作り出しているものらしい。たしかに、外界というものはあるものの、それを解釈しているのはまぎれもないその人であって、解釈しだいで世界は全く変わってしまうというのだ。この考え方は一本通っていて、わたしの目の前にリンゴが一個あるとして、このリンゴをどう解釈するかというのが大きいのだ。「大きいリンゴだな」「小さなリンゴだな」「形がいびつなリンゴだな」と一個のリンゴをめぐる解釈だけでもいく通りもある。はたまた、目の前にリンゴがあるにもかかわらず、リンゴが目に一切入らなくて、リンゴの周りにあるものにしか目が行かないということもあることだろう。あるいは特殊な例だとは思うけれど、リンゴというものを見たこともなく知らない人にとっては、このリンゴもリンゴとして認識することはできない。ただ単に丸いものがあるな程度の認識になることも十分考えられる。だから、極端なことを言えば、目の前にはリンゴという物体があるだけで、それをどう解釈して判断するかはわたしたちに委ねられているのだ。
 この解釈がわたしたちの気分、つまり感情に与える影響は大きくて、ポジティブな感情を引き起こすような解釈をすれば気分は明るくなるし、反対にネガティブな感情を招くような解釈をすれば気分は暗くなり落ち込む。その証拠に誰か人が亡くなったとしても、普通は悲しみがやってくるものだけれども、とらえかた次第では前向きな気持ちになることもできるのだ。唯物的? 唯物的すぎるかな? でも科学的に感情を考えるならこうなるんじゃないかって思うんだ。
 そういうわけだから、世界が暗くて絶望しかないと思っている人は自らネガティブな情報を集めてしまっている。もちろん、ネガティブな情報も安全に生きていくためには必要なものではある。「石橋を叩いて渡る」という言葉のように、自分が進もうとしている道ややろうとしていることが安全かどうか確認する作業は必要だ。わたしたちがネガティブな情報に敏感なのも、自分の身を危険から守るためなのだ。いわば本能と言っていい。
 しかし、行きすぎたネガティブさは得てして自分を息苦しくする。世界には暗さもあるけれど、明るさだってしっかりある。わたしたちはコロナの情報とか、自然災害の情報に敏感で極度に恐れる。でも、考えてみればコロナだって自然災害だって全人口のほぼ100%を死滅させるような被害は出していない。もちろん、それらのことが軽いとか大したことないとか言うつもりはない。言うつもりはないのだけれど、冷静にこれらの出来事を眺めてみれば、これらが世界のほんの一部でしかないことに気付かされることだろう。もしも、これらが世界のすべてだとしたらこの世は終わっているようなものだし、明るさなんてひとかけらもないよ。
 この世にはたしかに闇がある。暗さがある。でも、それ以上に明るい光の世界もあるんじゃないか。だから、「この世界はすべて闇です」とか「この世は破滅しています」などといった極端な思想は、ネガティブな側面を拡大して見過ぎているように思うのだ。言うのもはばかられるような凶悪事件は日々起こっている。けれど、それがすべてではない。平穏に幸せに暮らしている人はたくさんいるし、問題はありながらも何とかやっていけている人だって大勢いる。
 ネガティブな情報は黒い一滴のインクのようなもので、それが水の中にたらされると一気に水を真っ黒にしてしまう。でも、水自体がすべて真っ黒なインクかと言えばそうではない。染まるまではきれいなきれいな水だったのだ。水は一滴のインクで黒くなってしまうけれども、水自体がすべてインクではないのだから、浄化すればまたもとの澄んだ水になる。
 だから、わたしは世界は終わりではないと思う。完全に破滅しているわけではないと思う。闇があれば、それを照らす光が必ず射し込んできて、この暗さを明るくしてくれるはずだと信じている。ポジティブ過ぎ? 楽観的すぎる? 実情に即していない?
 わたしは世界というものは、そのどこを見るかによって見えてくるものが大きく変わってくると思うんだ。わたしたちは人間なのだから、この世界を公正中立な偏りのない目で見ることはできない。どんなに見識を広げていっても神様の視点を得ることはできないと思うんだ。わたしたちの生きることのできる人生はもちろん有限な時間であって、それを能力も知識も有限な存在であるわたしたちが生きる。だとしたら、得られるもの、つまりは見えるものだって限られたものでしかないと思うけどな。神様みたいに全知全能になれたらどんな風にこの世界が見えてくるのか、立ち現れてくるのか。わたしたちは有限な思考や思いでそれに思いを馳せることしかできないんだ。
 だとしたら明るいほうを見ていた方がいいんじゃないか。暗いほうも見なければならないかもしれないけれど、明るいほうに視線を送った方がいいんじゃないか。
 ネガティブな情報に向き合うことも必要ではある(たとえば、世界の貧困・飢餓の問題とかコロナの問題とかウクライナでの戦争とか)。でも、それが世界のすべてであるかのようにとらえてしまうのはやっぱり行き過ぎているんじゃないかって思うんだ。それが大問題であることは認めつつも、わたしは自分が置かれているこの場所に感謝しつつ歩んでいきたい。幸せをしっかりとかみしめて味わっていきたいんだ。だから、世界にネガティブな問題があるから自分は幸せを感じてはいけない、ではなくてしっかりと自分の幸せも追求していくんだ。
 世界観。それにはその人自身の人生観、ものの見方、価値観や倫理規範などが如実に現れる。だからこそ、わたしは幸福な世界観を持てたらいいなと思っているのだ。脳天気? 楽天主義? 自分のことしか考えていない? わたしに向けられてくる批判はどれも的確で素直なわたしはそれもそうかもなと思ってしまう。でも、その批判をまともに真正面から受けて、いつも暗い顔をして「何で世界はこんなに悲惨で残酷で不条理なんだ」と悲しげな顔をして毎日を無為に過ごすよりは、そうした問題を受け止めながらもわたしはわたしとしてやれるだけのことをやった上で、自分の幸せも手放さない、という方が建設的であり、前向きではないかと思うのだ。もちろんわたしは社会問題や世界の問題を解決するために尽力されている方々には頭が上がらない。しかし、わたしにはわたしの分があり、わたしはわたしなりにやれることをやっていけばいいのだ。
 類は友を呼ぶ。だから、ネガティブな人間の周りにはネガティブな人間が集まってよりネガティブになっていくし、その逆は逆でしかりなのだ。だから、明るい光のほうを見るようにした方がいいのではないかってなおさらわたしは思うんだ。転ばないように石が転がっていないかと下を見ることも必要。でも、いつも下ばかり見ていたら下を見ているだけで人生が終わってしまうよ。下も時々見ながら前をしっかりと見る。さらには上の大空も眺めながら、ね。幸福な世界観、持ちたいなぁ。

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