いつからわたしたちは優越感を持つようになってしまったのだろう。
わたしの場合には、もう小学校1年生くらいから、もうそうした感情は生まれていた。わたしは割合、脳の発達が良好で早い方だったので、小さい頃から勉強ができた。テストをやれば、いい点数が取れた。
一方、クラスにはお世辞にも頭がいいとは言えない子もいた。特筆すべきはTくんとNさんでこの2人はからっきし勉強ができなかった。そして、暴君のような担任(今わたしが思うには教師失格)から事あるごとに蔑む言葉を浴びせられていて、わたしは「もっとちゃんとやればいいのに」と冷めた思いで眺めていた。
わたしはその時、残酷で無慈悲なようだが、自分は彼らとは違うと思っていたし、回りからもそうした眼差しを向けられていたから、何も疑うことさえなかった。
これはわたしが小学校1年生の時の話だが、今大人になって世間を見回してみると、こうした優越感と呼ぶべき感情が当たり前のように表立って現れているように思う。これは何も子どもの世界だけの話ではなくて、大人の世界にも厳然として存在する負の感情なのだ。
優越感。そして、それが優れた他者と自らを比較する時には劣等感として現れる。誰しもが持っている醜い感情である。
大人の世界では、お金を持っているかどうかだったり、学歴がいいかどうかだったり、名声を博しているかどうか、社会的地位が高いか低いかとか、容姿が優れているかどうかだったりする。ちんけな、と思いたいところだけれど、なかなかその一言で片付けることはできない。
誰かよりも自分は優れているんだと誇示する。そうしたあり方の先に待っているのは、言うまでもなく争いだ。戦争だって誰かを見下すことから始まる。そうして他の国を攻撃して植民地にしたりする。つまり、自分に従わせる。その国の人々を従わせる。要するに誰かに対して優越感を持ちたいのだ。自分が優れていることを示したいし、誇りたいのだ。
支配っていうのは平等で対等な関係では成立しない。必ず、優れた者と劣った者がいなければならない。正しい者と間違った者がいなければならない。でも、わたしたちは神様じゃないんだ。そのことをはっきりと自覚する必要がある。誰が優れていて、誰が劣っているとか基準を作る権限があるのは神様だけじゃないかってわたしは思うんだ。もちろん、ペーパーテストをやれば一番からビリまで序列は生まれる。でも、そのペーパーテストだって人間が作った基準でありふるいみたいなもんでしょ? だから絶対ではないし、そんな狭い物差しで人間の価値は汲み尽くせない。逆に言えば、テストの成績で人間の良し悪しが決まるって考えるのはおかしいと思うよ。ただ、その成績はテストの点数が良かっただけで、それが高得点だったからと言って、人格的なものまで同じように優れているかと言えば、そんな馬鹿な話はないよ。テストの点数が低くてもいい人はいっぱいいるし、反対にどんなに高得点であっても問題のある人はいる。それが何やら日本では、高学歴人間が人間的にも必ず優れているものだという、誤った偏見がある。
ということを書きながらも現在のわたしにも優越感は巣食っている。どんな人々に対してわたしが優越感を持ってしまっているかについては、ご想像にお任せするけれど、わたしも人間だからそういった感情を持ち合わせている。これを完全になくすのは無理だと思うけれど、減らしていく方向で行けたらなと思っているんだ。人間は平等。頭では分かっているし、その理念を支持したいとは思っている。けれど、現実にはわたしが万人を平等に扱えているかどうかと言えば、そうとはとても言えない。でも、平等だと考える方向へとシフトしていくことはできる。
最近読んだ本にこんなことが書かれていた。わたしたちは同じ地球に住んでいて、同じ空気をみんなで吸っている。そして、同じ太陽の光を燦々と受けている。これはみんな同じだということではないのか。たしかに一人ひとり別々の個性を持った人間ではあるけれど、こうした点では同じで平等ではないか。誰が優れていて、とか、誰が立派でとか、そういうことを言うこと自体が了見が狭いのだ、と。
みんな呼吸している。同じ空気を吸っている。何だかそれだけでみんな兄弟姉妹に思えてくる。神様は正しい者の上にも、正しくない者の上にも無差別に平等に太陽を昇らせてくださる、と聖書にあるではないか。さらに空気についても、神様は正しくない者に空気を与えることをやめて窒息死させることもなく、地球上のすべての人間に空気を与えてくださっているのだ。何という恵みなのだろうか。それなのに、わたしたちと来たら誰が優れていて、誰が劣っているのかと優劣を付けようと躍起になっている。そして、「俺の方がすごいんだぞ」とか「私の方がすごいのよ」と自分の優越をひたすら誇示しようとする。だからこそ、神様であるイエスさまは「一番偉くなりたい者は仕える者になりなさい」って弟子たちに言われたんじゃないかって思うんだ。本当に偉くなりたいなら一番偉くないとされている者になりなさい。まさに逆転の発想である。僕(しもべ)になる。たしかに世界中の人々が仕える人を目指したら争いはなくなるだろうな。お互いを立て合ってヨイショヨイショして、敬ったら支配しようなんていうことはできるわけがない。優越感を持っている僕なんていないからね。平等どころか、自分が僕になって下手(したて)に回る。世界の平和は仕え合うことによっておそらく達成されるだろうな。
優越感を持つこと。これがすべての争いの火種のようなものである。だからこそ、世界中の人々が優越感を捨て去って、平等意識に目覚める時、その時世界は平和になるんだと思う。自分の中の優越感とどう向き合うか。すべてはこれにかかっている。優越感を持って他者を見下すことをしない世界が訪れますように、と願わずにはいられない。「優越感」がこれからのキーワードだ。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。