進むべき道

いろいろエッセイ
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 今日は日曜日。いつもだったら教会へと向かうのに、礼拝の時間を自室のベッドで過ごしていた。何だか教会に行こうっていう気が起きない。きっとここ連日忙しかったから疲れているのだろう。知的な活動は4時間がほぼ限界だというのに、6、7時間やっていた日もあったし、とにかく疲労といった感じ。それにわたしの中で少しばかり葛藤、というかモヤモヤもあった。それはここ数日間の批判の応酬で心が傷付いてしまったことももちろんある。しかし、それ以上にわたしの中で大きかったのは、最近異教的なものにつかっていて、こうした態度がクリスチャンとしてどうなのだろう、と心にトゲのようなものが刺さっていたのだ。のどに魚の骨が刺さっているみたいな。あれである。元来、わたしは書物や人の言動から影響を受けやすい素直な人間である。だから、異教的な考え方、つまり思想的なものに染まり始めていたのだ。さらには、首に十字架のペンダントをぶら下げているくせに、ろくにお祈りもしていなかった。そんなわけでわたしはまるで神様に逆らっているようにしか思えなくて、ある意味、気まずい思いをしていたのだ。学校の教師の言うことにそむき、有害図書ばかり読んでいるみたいな、と形容するのが最も適切だろうか。
 わたしは祈った。「進むべき道を示してください」と。そうして20分くらいは祈り続けていただろうか。すると、あることに気が付いた。わたしは自分がどうなりたいか、といったことばかり考えていたんだな、ということに。つまり、自力に頼り、自分の意志で人生を切り開いていこうとしていたのだ。やはり、というか自力に頼るものは滅びる、と何かで読んだと思う。自分がどうしたいか、もある程度は必要だけれど、自分が、どうかではなくて、神様がわたしに何を望んでおられるのか、という視点に切り替えられるかどうかがポイントなのである。その視点に180度切り替わった時、わたしは神様からのメッセージを聞けたように思う。
 神様はわたしに従いなさい、と言われた。それは牧師としての召命ではなくて、もっと広い意味で、わたしのことを考えなさいと言われているように感じたのだ。わたしは最近、神様のことをほとんど考えていなかった。神様はわたしに従うことを求めておられるのだ。すると、これをやったらいいんじゃないかっていう道が与えられたのだった。
 神様がわたしに求めておられることは、大きく次の2つ。世界の貧困・飢餓問題の解決、ならびに平和に貢献しなさい。それから、聖書語学などを学び聖書を原典で紐解くこと。キリスト教神学やキリスト教史、それから神学者の著作を読みなさい。そして、何よりもわたしを求めて従いなさい。
 ここまで言われてしまうとあえて異教的な思想を学ぶ必要はない。(もちろん体調を良くするためのアーユルヴェーダはテクニカルなものだから別として。)何か、とてもすっきりした。自分のやるべきことがはっきりしたというか。
 で、以前買ってはみたものの途中まで読んでそのままになっていた貧困・飢餓についての本を再び読み始めたわたしである。
 途中までで思ったこと。それはわたしが恵まれているということである。わたしは働いていない。けれども、生活は障害年金で何とかなっていて、もちろんお腹をすかせたままでいることもなく、三度三度のご飯をお腹いっぱいになるまで食べることができている。しかし、本によると、世界には8億人あまりもの人がお腹をすかせてひもじい思いをしているのだ。その話が実に深刻で、栄養失調のために失明する人がいる。(ビタミンAをとれれば失明しないで済むのだが。)失明だけでは済まず、餓死する人がいる。この瞬間にも今も地球上では餓死している人がいることだろう。
 わたしは自分が調子良く過ごすためにいろいろな努力をしてきた。いろいろ体や心にいいことをやってきたのだ。けれど、この惨状は一体何なのだろう。豊かな暮らしを送れている人がいるかと思えば、一方では貧しさのあまり餓死している。それも必死の思いで働いているのに食べ物を買えるだけのお金を手に入れることができなくて飢え死にしている。
 何だか自分がとても悪いことをしているような気がしてきた。働きもしないのに三度の食事にありついているわたしと、必死の思いで働いているのに食事にありつけず死んでいく人。
 わたしには生存権が保障されている。だから、悪いことはしていないのだ。食べていいのだ。むしろ、貧しい国の人にこの権利が保障されていないことが問題なのだ。頭では分かる。けれど、何というか、心情的に後ろめたいというか。
 わたしの勝手なイメージだが、アフリカの貧しい国の黒人が必死の思いで働いている。額に汗して働いている。ガリガリに痩せていて、ろくに食べていない。
 理不尽。何という理不尽なのだろう。言葉を失うとはまさにこのことだ。わたしにできることは何かないだろうか。
 神様がわたしに示してくださったこの道を進んでいきたい。まずは、貧困と飢餓の本を3、4冊読み終えること。すべてはそれからだ。神様に祈りをささげて対話をしながら、新たな道を一歩一歩進む。
 神様はいつもわたしと共にいてくださる。だから大丈夫。大船に乗った気分でどーんと行こうではないかと思っている。

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