左のインテリさんとお話しさせてもらって思ったこと

いろいろエッセイ
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 最近、やってみよう、始めてみようと思ったことをやるようにしてから、いろいろな人との出会いがあった。そのすべてが有益だっったとは言い切れないけれど、多様な人たちと関わるようになって自分自身というものが見えてきたような気がする。今回はそのうちの一人のことを取り上げてみたい。
 マルクスが資本論の中でこんなことを言っていた。それは、そのものの価値は比較するものあってこそなのだと。そこでは亜麻布の価値を例として説明していたのだけれど、その亜麻布だけではそれが価値があるとかないとか、高いとか低いとは言えないらしい。まぁ、これは当たり前と言えば当たり前のことだ。この地球上に自分一人だけしかいなかったら、この自分の価値が分かるわけがない。ただ自分がいる、となるだけ。そこに自分以外の存在がいることによって、あぁ、自分は他の誰々さんよりは背が高いな、性格がおだやかだな、容姿が整っているな、力があるな等々と比べることができる。だから、価値というものは比べるものがあってこそなのだと思う。そのものだけでは意味も価値もない。そう、この人生には意味がある、これは価値があって素晴らしい物だ、と言う時には無意識のうちに意味のない人生と無価値な物の存在ををぼんやりとではあっても前提している。すべてが素晴らしい、すべてが最高に素晴らしいと言うのなら、その素晴らしい状態が普通なのだから、何も素晴らしくはないことになると思うのだけれどどうなのだろう? みんな宝物。すべてが最高の価値を持っている。だったら、それを宝物などとは言えないはずだ。たとえるなら、あたり一面、そこらじゅうに普通の石ころのように大きなダイヤモンドがごろごろ転がっていたらその価値は低いはず。それと同じように、神様はすべての人を尊く価値がある存在だと思っているという話もどうなんだろと思ってしまう。価値がある物、宝物があるためには言い方は悪いけれども、価値のない不要なゴミがなければならない。あるいは、ゴミまでいかなくても価値のない物、宝物でもゴミでもない物がなければ、そういった価値がある宝物というものはあることができない。
 こういう話をある場所で知り合った人とした。その人は、「人間はみんな歪んでいていびつだ」と話をしてくれた。さらには、みんな自分を統合できていないのだから、すべての人は統合失調症ではないかとも言った。すごく柔軟で頭がいい人だなと思った。でもね、これと同じことを浦河のべてるの家の潔さんが言っていたんだな。「みんな病気だ」って。そのわたしと話をした人がその潔さんの言葉を聞いてそう考えるようになったのかどうかは分からないけれど、二人とも言っていることは一緒だった。で、それに対して、わたしは「歪んでいるとかいびつだと言うためには、歪んでいないものやいびつではないものが必要なんじゃないですか?」と質問した。となると必然的にすべての人が歪んでいていびつだということは成立しなくなる。いや、できないはず。歪んでいない人、いびつではない人がいてこそ、となればすべての人がとは言えなくなってくる。それともすべての人は歪んでいていびつなのだけれど、観念としてそういった歪んでいない完全な存在を考えてイメージしてそれを基準にしているだけなのか。その場ではそこまでは思いつかなくて切り込めなかったけれど、そのさきのわたしの質問に答えた彼の答えがどうもしっくり来なくて「その感覚が分からないんですよ」みたいにわたしが言って、その彼との話が終わったという感じだった。
 彼と話をしていて思ったことは、こちらが言っていることをしっかりというか、カッチリとちゃんと理解した上で言葉を返してくれているなということで、ものすごく真面目でかたい話をしているにもかかわらず、こちらの言いたいことを分かってくれる。だから、話をしていて、内容が難しいから疲れたことは疲れたものの、心地よくて充実した、かつエキサイティングでスリリングな時間だった。
 彼はわたしのことを「自己完結はしていないのではないか」とも指摘してくれた。それが彼と話をして得たわたしにとっての一番大きな気付きで、自分の中で完結していたら、もう他の人とか社会とかどうでもよくなるよなぁて思った。たしかにそうだよなぁ。もう自分の中で意味や価値、どう生きるかといったことに答えが出ていて、自分でいわば自給自足のような感じで完結して事足りていたら、もう自分以外の存在がどうでもよくなるよ。行動範囲を自分の部屋だけにしなくても、精神的な意味ではひきこもっている状態になると思う。
 わたしはやっぱり今、探しているのかなぁ。「わたしはわたしで、他の人はどうでもいいし関係ない」とまではその必要があるかどうかはともかくとして、吹っ切れていない。どこか中途半端で承認を求めているのか、いないのか、求めているようで、でも要らないとも思っているような、どっちつかずの宙ぶらりんのような状態。もっと言うなら、人生の目標とか目的なんてなくて、ただ、ぶらぶらとその日その日をやっているような、でもそこまではテキトーになりきれていなくて、社会とか周りのことや他の人たちのことにもそれなりに興味関心があって捨てきれていないような。一言で言うなら「中途半端」。キングオブ中途半端と言っていいかもしれない。
 家に帰ってから、その人からもらった名刺を片手にネットでどういう人なんだろうと検索してみたらなかなかの、いや、世間が言うところのかなりレベルが高いインテリだったようで、どうりでとわたしは納得したのだった。こちらの話をカッチリと理解してあれだけ適切な言葉を返せる人はなかなかいないから、まさにどうりでといった感じ。一つ一つの受け答えがとにかく的確でユニークで面白い。冴えていて、無駄なことは一切言わないし。
 わたしよりもかなり年上の彼が言うことで面白かったのが、「本当にすごい人というのは、イエス・キリストやシャカのような聖者や偉い人たちではなくて、どこにでもいるような普通の人たちなんだよ」という一言で、おぉ、左の人だなぁって思った。で、それを受けてわたしが「いや、普通の人たちではなくて、スラム街で貧困に苦しみながら生きるか死ぬかやっている人たちこそすごいんじゃないですか」と返すと「それは超左、ド左。究極の左だね」と笑いながら言う。そして、さらに「どうしてこの世界は頭のいい人が頭がいいということだけでこんなに優遇されてお金もいっぱいもらえておいしい思いができるんですかね。逆に、頭がよくないとされていることこそ価値があって素晴らしいっていうことはないんでしょうか? ダメであればあるほど素晴らしいとか面白くないですか?」とわたしが畳みかけると「どうなんだろうねぇ」とこれまた面白そうに「いやはや困ったな」みたいなリアクションをする。それがまた嫌味がないのがすごい人なんだろうなって今振り返ってみて思う。優遇されてお金をたくさんもらえておいしい思いをしている人たち。それは日本の場合だったら東大だろう。彼は自分が東大を出ている云々ということをその時には言わなかった。すごい人というのはもしかしたら、わたしのヨガの師匠もそうだけれど、人のことをあからさまにけなしたりはしないのかもしれない。批判するとしてもサラっと嫌味なく「わたしはこう思う」とスマートに言うだけで、ぐちゃぐちゃ粘着質ではない。わたしも含めたすごくない中途半端な人ほど人のことをワーワー言って、批判してけなして見下して、自分の方が上なんだということを示して相手やまわりの人たちに分からせようとする。本当にできる感じの力のある強い人はそもそも相手をやっつけたり貶める必要がない。相手を批判することで得られる薬のようなものは不要だ。自分が批判されても怒るどころか笑っていられるだけの心の余裕がある人は違うなぁって思う。そして、すごい人がどこまでも高いレベルへと進んでいくと、もはやすごいとかすごくないというジャッジをしない無判断の境地へとたどり着くとわたしは思っている。すごい、すごくないということ自体がなくなっていく。すべての意味や価値は人間が主観的に判断しているだけで、すごいとかすごくないとか言っているようではまだすごくはない。っていうか、すごいとかどうとかどうでもいいし、ただそのようにあるだけでいい。わたしが理解している自由はそういう自由だ。幸福と不幸の先にある自由を目指して進んでいく。でも、真相はどこか遠い場所にその自由があるのではなくて、もう何をするまでもなく、今ここがゴールなんだよ、ということではないかと。いや、幸福はおろか、ゴールも自由も観念で頭の中で拵えただけのものでしかないのでは? そして、ああでもない、こうでもないとあれこれ必要もないのに無駄に考えて、いわば、空想、妄想して存在さえしていない「人生のゴール」を作り上げてそこにたどり着こうとする。
「幸せになりたい」と多くの人が思っている。それは突き詰めると自由になりたいということではないか。でもね、その自由すら虚構というか、存在しないんだよ。たぶんだけど。って、最近おんなじことばっか言ってるな(いや、「書いている」が正しい)。ま、同じ人だから仕方がないよね。御勘弁を。
 と冷めたわたしですけど、その左の人である彼がカフェでわたしと一時間くらい話をして、それから別れ際に、その日に知り会ったばかりだったのにわたしの手をぎゅっと強く握って、大親友のように「ありがとう。また会いましょう!!」と言ってくれたその姿が未だに鮮明に記憶に残っている。これも幻? でも、嬉しかった。幻だとしても。とてもとてもすごく。予想外の展開があるから、たとえ幻だとしても人生は面白いのかもね。そんなことを思いましたよ。ハイ。

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