わたしにとって一番の人生最大のテーマは、メリットについてなのだと思う。このメリットについては本当にいろいろと考えてきたし、自分なりに不十分ながらも探究してきた。
旧約聖書のヨブ記に「利益もないのに神を敬うのか」というサタンの言葉がある。この言葉は本当に鋭くて、神を敬うのかどうかということだけではなくて、「利益もないのに人は何かを愛するだろうか」という難しい問題をも同時に言い表していると言ってもいい。
果たして人はメリットがないことをするのか? しようとするのだろうか、と問えばしないと思う。どう考えても、メリットのないことなんてしない。わたしは、今までに何のメリットがないにも関わらず、何かをしたという人を知らないし、聞いたこともない。そう、たとえ殉教、殉職、誰かのために身代わりになって死ぬことであっても、結局、サタンに言わせれば、それにメリットを見出したからやったんだろ、ということでしかない。神様を信じて信仰を持つことについてももちろん、それにメリットがあって、信仰することが心地良かったり、気持ちが安らぐからやっているだけのことで、要は自分が気持ちよくなりたいからやっているだけではないか、ということを否定することはできない。
となると、結局、不快な真実ではあるけれど、みんな自慰行為、つまりオナニーをしているだけだということになる。肉体というオナニーマシーンに乗って、ひたすらどうしたら気持ちよくなれるかとやっている。そう考えると、すべてがゲンナリしてくる。みんな自分が気持ちよくなりたいだけだろ、ということですべてが説明できてしまうからだ。
いやいや、断食などの苦行があるでしょ、と誰かは言うかもしれない。あるいは、苦痛を避けるために何かをすることだってあるじゃないかと指摘する人もいることだろう。これらについて答えようとすれば、断食はやはり食を断つことによってやはり気持ちよくなるのだし、苦行もその苦行の縛りをゆるめた時に苦しさが和らぐのが気持ちいいからやっている。苦痛を避けるために何かをすることについても、苦痛がなければ心地良くいられるのだから、それだって快を求めている。
と、まどろっこしい説明をするまでもなく、それをすることにメリットを感じているからこそやっていると言ってしまえば、その言葉だけで事足りるだろうと思う。
そう突き詰めて考えてしまうと、このサタンの言葉を打ち破るのは無理なのではないかと絶望的な気分になる。みんな、メリットありきで動いている。「メリットありきではない」「メリットがなくても人は行動する」とメリットを得ようとしてやっているわけではないと頑なに否定しようとする人であっても、このメリットという言ってみれば、お釈迦様の大きな手のひらの中で跳ね回っている孫悟空のような状況を脱することは無理なのではないか。メリットを打ち破ることは原理的に不可能なことのように思えてならない。
しかしながら、もしその通りでしかなくて、みんな自分の気持ち良さや心地良さを求めているだけでしかなかったとしたら、すべての人のすべての行為は汚れていて不純だということになってしまうのだろうか。利他的な行為など一切なくて、利他的だと一般的に言われていて、そうだと信じられている行為であっても所詮は利己的な自分中心の身勝手なものでしかないということになるのか。程度の差はあれども、人の行為はみな醜い。なぜなら、すべての行為は利己的だからだ。そう言ってしまっていいのだろうか。
サタンはわたしに囁いてくる。「みんな、自分が気持ちよくなりたいだけなんだよ。自分の気持ちよさを求めているだけなんだよ。誰かのために何かをやっているなんてことはないからさ。いい加減、お前もそれを認めろよ」。
人間の行為は不純で利己的で実に醜くて、詰まるところは自分が気持ちよくなりたいだけ。それに対して切り返すのであれば、どう返したらいいものなのか。
仮にメリットを打ち破ることができなかったとしよう。サタンが言うことがこの世の真実であって認めざるを得ないとしよう。もしも、そのサタンの言うことに逆らって真っ向から反論するなら、次のように言うしかない。
「だったら何が悪い!?」
こ、これはフェミニズムで社会学者の上野千鶴子氏の伝家の宝刀ではないか(笑)。つまり、もう逆ギレだ。
この世界で人がすることは皆、利己的だ。自分の気持ち良さを求めているだけのことで、どんなに人のために何かをやっているように見える人であっても、どんなにそれが利他的であるかのように表面上は見えたとしても、それが気持ちがいいからやっているだけのことでしかない。だったら何が悪いんだ? この世界にいるすべての人たちのやっていることは程度の差こそあれども、肥溜めのようなものだ。みんな、ウンコのようなものだ。だったら何が悪い?
ところで、というか、この文章を書いている今、わたしは体調を崩して風邪をひいていて、熱が38度ちょっとはある。だから、気分は良くないし、こうして文章を書くのも決して楽ではない。
で、今回思うことがあった。それは無償の愛はこの世にはないだろうけれど、無償の愛のように見える愛があれば十分ではないかと。
同居している母がわたしのためにスーパーへ食べ物を買いに代わりに行ってくれた。調子が悪いわたしのことを思って、いろいろ世話をしてくれた。ここまで書いてきた理屈を持ち出してけちょんけちょんにけなそうとすれば、この母のわたしを思っての一連の行為も自分の気持ち良さのためにやっているだけだということになる。突き詰めれば、母は自分のためにやっている、ということになる。理屈ではそうなる。でも、わたしは嬉しかったし、ただただ母の優しさが心にしみた。
利他的な無償の愛などない。原理的にはそうなる。でも、無償の愛のように見える愛はある。それがたとえ無償ではなくて、利己的なものに過ぎなかったとしても、この愛で満足すべきではないかと今回のことを通じてわたしは思った。
「自分だけが気持ちよければいい」と「他の人が気持ちよくなってくれるのが自分は気持ちいい」では違うのではないかという風にも思えてきた。結果的にはどちらも自分が気持ちよくなっていて、自分の気持ちよさを求めている点では同じだ。しかしながら、後者の方が人として成熟した態度であることは間違いない。
サタンが言うメリットを打ち破ることはどう考えても、原理的に構造上できないことだ。しかし、それでもお互いに愛し合うことはできる。たとえ、それが美しいものであるかのように偽装しているだけの醜いものでしかなくても、それならそれでいい。
わたしたちは醜い利己的な愛しか持つことができない。つまり、それが義人は一人もいないということなのだと思う。皆、利己的だ。皆、醜く、どんなに人のためにやっているように見えても、結局は自分の気持ちよさや心地よさを求めてやっているだけだ。
人の行為はすべてが利己的で醜いということをしっかりと了解してわきまえた上で、それでも何かをしていこうとする。いや、何をしていくことを望むのか。何をしていき、どうあろうとするのか。
無償の愛がないことが明らかになった今、わたしたちはそう問われているように思えてならない。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。