わたしは生きている。これを読んでくれているあなたも生きている。人だけではなく鳥も獣も魚も木々も草も地球上にいるありとあらゆる生き物たちも生きている。そして、生きていれば何かを考えるか、考えることが難しい場合には少なくとも何かを感じている。このことだけは事実ではないかと思う。
わたしが今までに考えてきたこと(生まれてから現在の今まで)をすべて列挙するのは考えてきたこと自体が本当にたくさんだからできないにしても、それなりにいろいろと考えてはきた。その中でも特に漠然としつつも本当のことを求めてきたような気がしてならない。
「本当のこと」って何なの、と聞かれて即答できる人はなかなかいないと思う。本当のこと、もう少し硬い言葉を使うと「真理」とか「真実」。
この言葉を聞くと世の中で普通に生活できているちゃんとした大人の人は、「あぁ、あの思春期から青年期にかけてはまる青臭い哲学ね」と了解するだろうと思う。おもに中高生、大学生がはまって絡め取られる「わたしとは何か?」「真理とは何か?」「真実とは何か?」といった問いはその時にはまるで、はしかにでもかかったかのように、ああでもない、こうでもないとウンウン呻いて考えるけれど、社会に出て仕事をして家庭を持ってと大人になっていくと大抵の人はそんなことを考えてもムダでお金がもらえるわけでもないから、気が付くとそのことはどうでも良くなって卒業している。それが大人になるということで、30代、40代、50代、それ以上と明らかに年齢的に青年期をとうに終えているはずの頃になってもまだウンウン、ウンウン呻いて考えていたら「大丈夫?」と世間から心配されて「大人になれないんだね。かわいそうに」と可哀想な感じの人として同情されるか、あるいはもう少し見下すような感じになるとイタい人として扱われる。
となると、わたしはその可哀想でイタい人ということになる。でも、わたしのことをそう思うようなら思っていてくれればいいと最近は開き直っている。
さて、話を本題に戻して、本当のこと、真理とは一体何なのかということについて最近わたしが思うことを述べていきたいのでここから先、読みたい方は進めていってほしい。
わたしは一時期、キリスト教を熱烈に信仰していたガチなクリスチャンだったから真理という絶対的なものがあると信じていたし、確信さえしていた。その真理はキリスト教の神様でありイエスさまで、それこそが絶対的に正しいことなのだと思っていた。だから、今思うとなかなかある意味アブナイ感じだったなと反省しているのだけれど、そのキリスト教以外の思想や教えというものは邪道であり邪教なのだと考えていた。もちろんお坊さんやお寺で焚かれるお香なんてもっての他で嫌いだった。とにかくキリスト教が正しくて、それ以外は間違っている。そんなある意味、一途で排他的な感じさえあった原理的なわたしの考えを教会の牧師が「それは行き過ぎだと思う」と言った。それくらい真面目で熱く篤い信仰者だった。
でも、わたしはそれからいろいろあってキリスト教の信仰をほぼ失った。今は、というか今も、教会で受洗したから一応クリスチャンということになってはいる。教会の人たちから見たら、まさに聖書の話としてある放蕩息子で神様のもとを離れて彷徨って放浪し、好き放題やっている。そして、その放蕩息子のわたしが父親である神様のもとへと戻ってくるのかどうか。現在の状況はそんなところだ。
そんなわたしが思い、考える「本当のこと」、つまり「真理」とは結局のところ、誰かにとってのそれでしかないのではないかというのが現在の時点での暫定的な結論だ。そして、本当のこと(真理)は人それぞれで、その人にとってそうであれば良くて、何もこうでなければならないということはないのではないか、と。
たとえばある人、仮にAさんという人がいるとしよう。わたしはそのAさんにとてもお世話になっていて、事あるごとに助けてもらっている。Aさんは本当に人間的に素晴らしい人だとわたしは思っていて尊敬さえしている。
ところがそのわたしが尊敬してやまない同じAさんのことをBさんは「あの人は最低な詐欺師でろくでなしだ」と批判して罵っている。
かと思えば、また別のCさんはAさんのことを「すごく甘えん坊さんで赤ちゃんみたいな人で何にも自分一人ではできないよ」と言う。
と思いきや、Aさんは社会的には責任ある立派な仕事についていて、妻子もあり、多くの人たちから「あの人は立派な地元の名士で誇りだ」と賞賛されて名誉市民のように扱われている。
このように同じAさんであるはずなのに、見る人によって印象などが異なって矛盾さえしている。実際にはここまで極端なことはないとは思うけれど、わたしにとってのAさんとBさんにとってのAさんとCさんにとってのAさん。さらには世間一般の多くの人たちにとってのAさん。見る人によってその印象や姿は違うはずだ。誰かにとっては天使のような人でもまた別の誰かにとっては悪魔のような人なのかもしれない。
そうなってくると究極的な意味においてわずかな歪みも誤りもなく本当のことである真理を把握できているのは、全知全能の神様だけだということになる。すべてを知っていなければそのものの本当の姿は分からないからだ。だから、一人の人間がどんなにたくさん学んで経験を積んでもそれは一面的な理解にしか過ぎないのだから、偏ったものの見方である偏見の域から脱することはできない。
そこまで透徹させて本当のことである真理を考えて、求めていこうとするなら、わたしは妥協と言うと言葉は悪いけれど、自分なりの、つまりはわたしにとっての本当のことである真理を見つけることができればそれでいいのではないかと思うのだ。というか、それ以上のことが人にできるのだろうか。わたしにとっての本当のこと以上に本当のことは、神様や全能者や絶対者のような存在を通してしかおそらく分からないし把握できない。いや、そうではなくて座禅を組んでひたすら瞑想をしていれば直感的にすべてが分かるとかヨガをやって心身を研ぎ澄ませていけば分かるなどと言う人もいるだろうけれど、そのことをわたしは否定はしないものの、それだってその座禅やヨガをやっているわたしにとっての本当のことでしかないのではないかと。
わたしが本当だと思うこと。それはどんなに荒唐無稽で周りから見て馬鹿げているようにしか思えないことであっても、そのことをその当事者である本人が「これは本当のことだ」と腹の底から納得して了解して確信しているならそれ以上に本当のことはない。
わたしもたまに聞こえる幻聴。まわりの人は、それが聞こえるあなたがおかしくて間違っているんだと否定する。病気だからそういうのが聞こえるんだとさえ言う。でも、本人にとってはそれは幻ではない。実際、本人には聞こえているのだから幻聴ではない。いや、むしろそれが聞こえていない健常者の方こそが聞こえないという幻聴を聞いているのではないかとも言える。「聞こえないの? あなたの方こそおかしいんじゃないの」となるとどちらが精神障害者なのか分からなくなってくるから面白い。
また、事実関係ではなくて美醜や善悪などについても似たようなことが言える。
たとえば、ある男性が「この人は世界一の美人だから結婚したい」と思う。まわりの人たちにも「ボクの彼女は世界一の美人なんだ。こんなに美しい人は世界中を探してもどこにもいない」と言ってはばからない。けれども、その女性を見た彼のまわりの人たちは「世界一どころか不美人でお世辞にも美人とは言えない」と口を揃えて言う。この場合、まわりの人たちや世間の多くの人たちがその女性を美しいと思わなくても、その美しいと思っている男性にとっては世界一美しい。その男性が美しいと思っていることが誤りなのかどうかと言えば誤りではなくて、彼にとっては美しいのだから本当のことであって、彼にとってその美しいということは真実だ。
みんなが、多くの人たちがいいと言う。価値があると思って大切にして、素晴らしいものだと評価する。あるいはその道の権威ある専門家がこれは価値がある素晴らしいものだと評価してお墨付きを与える。でも、たとえそのモノ、人、出来事、思想などを多くの人たちが「いいね」と絶賛したり、その道の権威ある人が太鼓判を押したとしても、自分がそれをいいと思えなくて価値がなくつまらないとしか思えないなら、それでいいのではないかと思う。自分にとってそれはいいものではなく、価値がないのだから。
同じように事実関係についても自分にとっての本当のことがあるとわたしは思う。この世界は幻だと思う人にとってはこの世界は幻で存在していない、反対にこの世界はしっかりと実在していて在ると思う人にとってはある、でいいのではないかと思う。幻だと思う人にとってはその幻だということは本当のことで、あると思う人にとってはあるということが本当のことであって真実だ。両者が意見を戦わせたらおそらく水掛け論みたいな感じで終わるだけで、最終的には神様などを持ち出さない限り決着はつかないはずだ(とわたしは思う)。
しかしながら、それでも人は、みんながそう言っているからとか、偉い先生やすごい人がこう言っているからということに弱くて、大して心を動かされているわけでもなく、いいと思えなくてもそのモノや人などを価値あるものとして受け入れてしまう。もちろん、みんながいいと言っているものなどはそれなりの理由があっていいとされている。専門家や権威ある人が推すものについても理由はちゃんとある。でも、そのオススメをいいと思えないならそれでいいのではないか。自分がいいと思えないもの、本当だと思えないことを無理矢理そう思うようにしようとしなくてもいいのではないかとわたしはヨガに出合って練習をしていく中で気付くことができた。
自分が思っていること、感じていること。そして、何よりもわたしが本当だと思っていて価値を見出していること。それは他の誰が、どんなに多くの人たちが、権威ある人が違うとか無価値だなどと否定してもそうわたしは思っているのだから、わたしにとっては本当のことであって真実だ。
それでいいのではないか。究極的には神のみぞ知るだからそれ以上のことはわたしには無理。わたしにとっての本当のこと、真実を見つめていきたい。わたしはそう思う。あなたはどう思う? あなたにとっての本当のことはありますか?

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。