何のために生きているのだろうと改めて考えたのでシェアします

いろいろエッセイインド哲学ヨガ
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 わたしが今思っていること。それは何のために生きているのだろうということ。東京へ旅行に行って帰ってきてから、そのことばかりをぼんやり考えている。
 何のためと訊かれると何のためなんでしょうねえ、と答えざるをえない。だって何のためにわたしの毎日の暮らしがあって、人生があるのかというのは謎だから。考えれば考えるほど分からないし、分からなくなってくる。
 わたしが熱烈にキリスト教を信仰していた時には、わたしの人生は神様のためにあった。とにかく神様に仕えて、神様の言うことに従って、どこまでも従って献身的に生きる。それこそが答えでそれ以外にはなかった。だから人生の目的はとても明確で少しの迷いもなかった。キリスト教の神様の言うようにやっていれば良くて、それ以外に何かが入ってくる余地はなかった。
 でも、キリスト教から離れて教会を去り、ヨガをやって好き放題やるようになったら、自分の軸のようなものがわからなくなってきた。さらには、ヨガ的な生き方というのが最終的に突き詰めていくと、何でもありで善悪も倫理もない本当に究極的な、言ってみるならカオスのようなそんな感じだから、指針のようなものがそもそもない。どうあってもいい。こうすべきとかこうしなければならないということはそもそもないんだよ。自由でいいんだよ。だって、この自分が現実だと思っている世界と、自分だと思ってきて信じてきたわたしというのはスクリーンに映っている映画のようなものでしかないのだから。その映画の登場人物をわたしだと誤解しているというのが真相で、本当のわたしはその映画のスクリーンの前で映画をただ見ている存在なのだと。
 何でもありと言うけれど、ヨガにはヤマとニヤマという人として守らなければならない倫理規定があるでしょう、とヨガに詳しい人なら言うかもしれない。でも、この世界が幻、あるいは夢のようなものであって、虚構の映画のようなものでしかないなら、その中で何をやったとかやらないとか、そういうことはどうでもいいことだと思う。幻の中でわたしという幻がどう振る舞って何をして何をしないか。そんなことはどうでも良くなる。夢や幻なのだから。そういう感じになってくると、この世界や社会を良くしていこうなんていう気持ちはそもそも起こらないし、起こりようがない。この現実だと信じてきた世界そのものが幻で夢のようなものなら、それを良くすることに心血を注いだところで一体何になるのか。世界も幻でしかない。その幻を進歩向上させても幻が進歩向上してレベルアップするだけでしかない。
 現実感覚が希薄になってきて、生きてはいるものの、何か死んでいるような感じになってきているせいなのか、わたしは何のために生きているのかが分からない。すべてが夢とか幻だというのに、それでもその幻である世界を良くして、自分のビジョンを持って幻でしかない自分の人生の目的を達成していくなんて訳が分からない。
 今、わたしの目の前にはPomeraというテキストを入力するための端末があって、その端末の前に座ってこうして一生懸命キーボードを叩いて自分の思いを文章にして綴っている。まわりには壁がある。白い壁があって、入り口のドアはすぐ近くにあって、机の上にはわたしが前に買ったものが置かれている。と、今目の前にあるこれらの物と一心不乱にキーを叩いてる自分とが、本当は存在していなくて、今わたしが見て感じているものは幻覚でしかないのではないかという感覚に襲われる。本当は何もない。何もないのだけれど、あると錯覚して、あるように勘違いしている世界の中でわたしはわたしとして生きていると思い込んでいる。本当は何もないのだけれど、誰かによってこの幻を見せられている。そして、その幻の世界の中に登場人物として参加させられている。
 こういうことを書くと心優しい人は「調子が悪いんじゃないの? 大丈夫? 疲れているようだから休んだ方がいいよ」と言ってくれるかもしれない。あるいは乱暴で攻撃的かつ差別的な人だったらわたしに「お前、頭おかしいんじゃねえの? 言ってることがヤバイから街を歩くなよ。目障りだから消えろ。気持ち悪いから近寄るなよ」と言うかもしれない。
 けれども、わたしが理解しているヨガ的な生き方というものは煎じ詰めればこういう生き方であって、現世をより良く生きていくためのものではない。もちろん、心と身体をヨガのポーズを取ることによって浄化してきれいにしていけば、不調はなくなって心も身体も整えられていくだろう。そして、バランスの取れた美しい人へと変わっていく。でも、そこで終わりにしないでその先へ行こうとすると、とんでもないカオスが待っている。ほどほどに体を動かすヨガをやって、ほどほどに瞑想をして、ほどほどにヨガ的な思想を生活に取り入れる。それだったら人生は好転していくだろうし、より良く生きることも可能だ。ヨガはそれくらいでやめた方がいいのかもしれない。
 もしもこの世界や自分や他者といったものがフィクションではなくてちゃんと実在していたら問題は解決するかと言えば、また今度は違う感じの問題が生じる。
 はい、世界はあります。わたしもあります。他者もあります。みんな、あります。しっかり、あります。幻なんかではありません。じゃあ、どう生きるの? 何を指針にして生きるの? あると分かってもあなたはいずれは死にますよ。死んでしまいますよ。だったら何をやっても意味がないんじゃないですか? どんなに頑張って生きても、頑張らないで生きても死ぬんですよ? 死ぬだけなんですよ? で、死んだらどうなるか分からないんですよ? どう生きます? 分からないでしょ?
 以前、ヨガの師匠と練習生の人たちがわたしに言った言葉の中ですごく印象的だったのが「みんな宗教のようなものでしょう?」という一言だった。その言葉を聞いた時にそうかもしれないなと納得した。この世界や自分や他者があると思うことから始まって、お金を信じること、健康を大切にすること、家族を大切にすること、知識を重視することなどなど、結局何かを信じるしかない心細いわたしたちがいる。何かを信じなければ生きていくことはできない。何かを信じているからこそ、こうして生きることができていて暮らせている。何も信じなかったとしても、その何も信じないということを信じているのだから、人は皆それぞれ、その人独自の宗教のようなものを持っている。
 それなら、この世界が実在していることも含めて分からないことだらけなのだから、頼りないようだけれど何かを信じてやっていくしかない。で、最初の問いにまた戻る。わたしは何のために生きているのだろう? 「そんなこと分かりゃあせんよ」と言うしかないし、これが最も的確な回答なのだろう。分からないけれども、というかこの世界がちゃんとあるかどうかさえも定かではないけれども、今わたしの目の前にこの幻なのかどうか分からない現実とされている世界が展開している。幸い、この世界は今のところ終わることなく、消滅することなく続いている(ように見える)。だったら何だかよく分からないこの世界で分からないなりにやっていくのが一番手堅いのではないか(でも、現実なのかどうかは相変わらず断定できない)。
 と、と、と思いましたら次の瞬間パッと何かが光ってこの世界は消滅して消え去りました。やっぱり幻か何かだったようです。あるいは神様が「もうこの世界を続けるのはだるいから終わりにすることにした」と宣言してこれまた何もない宇宙のビッグバン以前の無なる状態へと逆戻り。もう何もありません。ございません。あるのは無、空、無や空すらない状態。未来が分からないというのはこういうことじゃないですかね、皆さん。
「レディース&ジェントルマン、たしかなのは今だけですよ。そう、今だけ」。って身も蓋もない感じの結論にたどり着きましたけど、明日自分のお家が1km先の場所へと移動していることだってないとは言い切れないのです(多分ないけれど。移動していたらかなりのレアケース。物理法則はどこへ行きましたですね)。って支離滅裂なのは承知の上。でも、これが真理だと思う。未来は分からない。明日自分の家がどこかへ移動して行方不明になっているかもしれない(これは本当に怖い)。
 書いていたら何だかスッキリした。今日はこれで終わり。終。

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