とりあえず10年

いろいろエッセイ星のアシュタンガヨガ日記ヨガ
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 先日、ヨガの道場で今年最後の練習があった。最後ということで、生徒さんたちが先生と一人ひとり、言葉を交わして、この1年お世話になりましたといった感謝の気持ちを伝えていた。先生もそれに応えて、「よく頑張ったね」とねぎらう。そんな微笑ましい光景が道場ではあった。
 で、わたし。アシュタンガヨガではみんな練習が終わるのがバラバラでまちまちなので(だいたい同じくらいには終わるのだけれど、基本的には先生に見守られながらの自主練のようなものなので)、生徒さんは一斉に終わるわけではない。そんなこんなでわたしも自分の今日の練習が終わった。終了。ヨガマットにスプレーを吹きかけて汚れを取り除き、着替えて帰る支度をしてあとは先生と話すだけ。何を言うかはだいたい考えた。
 先生に一年間ありがとうございましたと感謝を述べて、「先生の『とりあえずやってみよう』という言葉はすごくいいですよね」とわたしが言うと、先生はわたしが全く予想もしていなかった言葉を返してくれた。
「何を得られるかは聞かずに、とりあえず10年やってみる。やってみてください。自分の中からわき出てくるものがきっとあるから」
 じゅ、10年? あまりにも予想していない返しに若干戸惑いながらも、その言葉がわたしの心の琴線にふれたようで、道場を出て駅へと向かう間もその「とりあえず10年やってみる」という言葉がぼぉ~んとわたしの中でおだやかに反響して鐘を打った時のようになっていた。鳴り響き続けたという感じだった。
 その言葉を先生がわたしに言った時、とても先生はおだやかでいい感じで、何も押しつけがましい感じもなく、率直に素直に、ともかく一言で言うなら、何の違和感もなくナチュラルな顔をしていたし、声もそのような感じでとても優しかった。
 とりあえず10年、という言葉。何てストイックなのだろうと普通の人だったら思うことだろう。やっとのことである意味、結構息を切らしながらこの最初の1年を駆け抜けてきたようなわたしへの言葉としてはなかなか強烈だった。しかも、その言葉を何の難しいことでもないかのように、さらりと言う先生。
 言うまでもなく、先生はこの人だったら10年練習を続けられるのではないかと思って言ったはずだ(と思う)。何の見込みもない明らかに無理そうな人にはそんなことは言わないだろうし、言う必要もない。そんな厳しさもある愛情深い先生の言葉だっただけにわたしは心動かされたようだった。
 10年とは、つまりそのことに思いを馳せると50代になっている自分を想像することへとつながる。10年後かぁ。まったく想像できない。生きているかどうかも分からないし定かではないから思い描くことができない。というのも、夢のお告げで何年後かは分からないけれど、とにかく2月の某日に死ぬということを予告されて以来、数年後とか10年後とかそれ以上先のことを考えられなくなっていたからだ。だから、わたしにはとりあえず今しかない。今生きることくらいしか考えていなくて、いつの年の2月に死ぬのだろうと畏縮している。
 わたしは未来とか思い描いていいのだろうか。いや、そもそも人間という存在自体がいつ刑が執行されるか分からない死刑囚のようなものなのだから、みんな誰一人として例外なく同じ条件のもとで生きている。20代のわたしが神経脅迫的にまでなった死の問題ではあるけれど、みんな条件は同じだ。でも、みんな夢とか未来とか思い描いて生きている。なりたい自分へと向かって、今努力をして夢とへ突き進んでいる。たしかに夢を描いてこうなりたいと思って努力している途中で、その道半ばの途上で夢をかなえることができずに死ぬ人は少数ながらもいる。と言いながらも人はそう簡単には死なないし死ねないものだ。おそらく生きている。生死にかかわるほどの重い病気にかかっているとか突然不慮の事故で死ぬことなどがなければ。
 わたしたちは何かを始めようと思うと必ず長年やっている先輩や先生、その道の達人などに「これをやるとわたしはどうなれますか? やると何を得ることができるのでしょうか? またそのためにはどれくらいの間やればいいのでしょうか?」と質問してしまう。それも何のためらいもなくいとも簡単にあっさりとだ。そして、その自分がやろうかどうか迷っていることをもう既にやっている人がそのことから大して得ることができていなかったり、しょぼかったり、やたらと時間ばかり食ってコスパが悪かったりすることなどが分かれば「これはやる意味、ないよな」と早急に判断してしまう。
 でも考えてみれば、何かをやってどうなるかなんていうことはやってみないと分からないことだし、どれくらいの時間と労力とお金をかければ、そうなれるのかなんて個人差があるのだからざっくりとは予測できたとしても、その予測自体があてにならないのは言うまでもない。
 何かをやればどうであれ変化はある。けれども、それはやってみないと分からない。同じことをやってみても人それぞれ感じ方はまちまちで、能力なども違うのだから、同じものを得られるどうかは分からない。ヨガの師匠が練習10年目で見ることができた景色と同じ景色をわたしが10年やった時に見ることができるかどうかというのは分からないし、ましてや保証などされていない。
 とにかくやってみてください。少なくとも素晴らしいことが待っているでしょうから。何が得られるかなんてわたしに聞かないでとりあえず10年やってみてください。先生はおそらくこう言いたいのだろうと思う。わたしがすぐに結果を出そうとするいわばウサギとカメの話で言うところのウサギであることを熟知した上での「何を得られるかは聞かずにとりあえずやってみて」というアドバイス。ご多分に漏れず、わたしは現代っ子で最短距離を無駄なく突き進んで、鈍臭いことなどしないでスマートに素晴らしい結果を出そうとしてしまうような人だ。マニュアルが大好きだし、そういったものがないと途端に不安になってしまう。
 10年後にどんな風になっているかなんて、まだ10年後にはなっていないのだからタイムマシーンにでも乗らない限り分からない。10年後のわたしはとっくの昔にヨガを「やってられるかよ」と言ってやすやすとやめているかもしれないし、あるいはひたすら続けていて、かなり深めることができて上達し、高名なヨガの先生になって教えているのかもしれない。はたまた、今の状態と大して変わらずに晩年初心者のままなのかもしれないし、とやっぱり未来のことだから、そりゃあ分からない。
 さっきから「分からない」と何度も連呼しているかのようではある。けれども、一つ言えることは今わたしがやっているヨガの先輩や先達たちが「これやると絶対良くないからやめた方がいい」などとは言っていないということで、この道が長い人ほど「やりなよ。続けなよ。絶対にいいから」というようなことを口を揃えたかのように言う。だとしたら、いいものである可能性が高い。などと推測して推し量るまでもなく、この1年やってみてわたしはこのヨガにハマっているわけだし、その素晴らしさを1年目にして体感しつつある。さらには何か神々しいような、神聖なそんな感覚さえも時折練習中に感じるのだ。
 なら、いっそのこと、つべこべ言わずにとりあえず10年続けてみますか。なんて言ってしまっていいのか。数年後のわたしが「こんな時代もあったねといつか話せる日が来るわ~♪」てな具合でこの記事を懐かしみながら読み返していて、「今はヨガをやめてしまったけれどあの頃すごく充実していて楽しかったよなぁ。熱かったよなぁ」と懐古している。そんな風になっていても決して悪くはない。たとえヨガをやめていたとしても。
 時々、道場でヨガをやっているとすごく不思議な感覚に包まれることがある。すごくすごく不思議な感覚に。そして、「何で今、ここでヨガをやっているのだろう?」と感慨深くなるわけで、人生というものは分からないものだとつくづく思う。ましてや、最近人生初のタンクトップデビューをしまして(しっかりとしたヨガウェアを買ったのです)、早朝に40を超えた年齢的にはおっさんの自分がタンクトップを着てヨガをやっているだなんて数年前にはまったく思いもしないわけだから、本当、人生というものは分からないものよねえ、というのが正直な感想なのだ。
 そんなタンクトップまで着るようになった気合いの入ったわたしを見たからこそ、もしかしたらヨガの師匠である先生はあの言葉をかけてくれたのかもしれない、と思うのが自然な流れだと思うのですけど、それは先生に聞いてみないと分からないな。って「分からない」ばっかり言ってますけど、分からないので、ハイ。
 夢のお告げ通りに2月に死んで、しかもそれが来年の2月、あるいは10年経たないうちにやってきたとしてもまぁ仕方がないかな、って思いつつある。というか、そう思うようにしたいものだと思っている。
 先生がわたしに言ってくれた言葉で他には、「この1年よく頑張りました」というねぎらいの言葉もあり、本当よく頑張ったと思う。でも、最近頑張っているというよりは、朝のお勤めをしているだけのような、そんな感じになってきているから頑張っているっていう感じではなくなってきたんだな。って、まぁそれはいい。
 いつ死ぬかは分からない。けれど、ヨガを10年目指して一歩ずつ続けていけたらいいな(つまりあと9年)、というのがわたしのささやかな願い。神様、どうかこの願いをかなえてください。お願い、神様。どうか、どうか、どうか……。

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