とりあえずやってみよう

いろいろエッセイ
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「冒険」という単語を聞いて真っ先にわたしが思い浮かべるのは、北極探検とか冬の雪山登山とかキリマンジャロ登頂とか、とにかくすごい冒険。それをやる人はすごく勇敢でとにかくバイタリティーに溢れていて、とてもではないけれど凡人には真似することなどできない。そんなイメージが冒険という言葉を彩っている。
 でも、冒険というのは定義にもよるのだけれど、本来は日常的に行われていることだと思う。なにも北極へ行くとか、高い山を登ることだけが冒険ではなくて、そう、日常こそが冒険。
 たとえばお料理を作ることも冒険のようなもので、見方を変えればすごくデンジャラスなことをしている。
 まず、包丁。これはかなり危ないですな。材料を切る時にちょっと手元が狂えば手を切ってしまったり、足に落とせば大ケガだし、足下に落として踏んでもこれまたヤバい。
 そして、ガスコンロで使う火。これも迂闊にさわれば火傷するし、鍋やフライパンなんかも熱くなっているからこれまた危険。ガスコンロの火で一番危ないのは、ちょっと袖が長かったりした時にそこに火が燃え移ること(昔、有名な女優さんでそういうことをして亡くなった人がいた)。
 お料理は危ない。じゃあ、料理をしないようにすればいいのかと言えばそうでもない。生きていくためには食料を調達して食べなければならないからスーパーなどへ行く。が、ここにも危険が。スーパーへ行く道中に交通事故に遭いかねないし、何らかの犯罪に突然巻き込まれる可能性だってゼロではない。
 では、家の中に完全にこもってすべてのことをネットで済ませばいいのだろうか。食料など生活に必要な物すべてをネットで買って配達してもらう。しかし、それすらもかなり危険はなくなるものの完全ではなくて、今度はあまりにもインドア生活になりすぎて心や体の健康を害してしまって何らかの重い病気などになりかねない。
 昔読んだレディースコミックでこんな漫画があった。それはどこにでもいる平凡な主婦の話で、その人には7歳くらいの一人息子がいた。彼女は夫とその息子の三人で楽しく暮らしていた。けれど、ある日そのかわいい息子が交通事故に遭ってしまう。幸い命の別状はなく事故にしては軽いほうでケガもそれほどひどくはない。それからだ。それから彼女は豹変してしまった。その母親でもある彼女は息子が日々直面するリスクを極度に少なくしようとしたのだ。とにかく息子を外出させない。ひたすら家の中にいさせて身の回りの危険になりそうなことをことごとく排除していく。「お母さんはあなたを失いたくないの。だから、わたしの言う通りにして」と息子を束縛して病的でさえある愛情を向ける彼女。そんな感じで数年が経ち、その息子はブクブクに太って顔色も悪く健康状態は最悪で精神的にも不調でとても沈んだ顔つきをしている。けれど、それでも彼女は息子にどこまでも執着していて、ひたすら家の中に閉じこめて閉鎖的な環境で歪んだ愛情を向け続ける。
 もちろんこれは漫画家が描いたフィクションで作り話だとは思う。しかしながら、どこまでもリスクや危険を取り除いていこうとするとこうなってしまうのではないかと思う。この漫画の母親が息子を大切に思っている気持ちは嘘ではないし純粋でさえある。けれど、それが息子本人のためになっているのかと言えばそうとは言えないはずだ。
 最近聞いた話では、何でも幼稚園のさつまいものいも掘り体験の時にあらかじめ、いもが園児にも抜きやすいように大人があらかじめ大方抜いておいてしまうらしい。完全には抜かなくても力が必要なところは前もってやっておくとのことで、わたしからしたら「そんなのいも掘りでも何でもないよ」と思ってしまうのだけれど、そういう話を聞くと、その大人たちは子どもに失敗させたくないんだろうなと思う。そして、最初から大成功を納めてほしい。失敗というものは好ましいものではないから、ないほうが良くて、子どものためを思えばこそなのだと。
 大人があらかじめ、いもを抜きやすくしておかなければ園児たちが大変なのは分かり切っていることだ。でも、いもが全然抜けないとか、そのせいで手が痛くなったとか、抜けたとしてもものすごく力を入れて引っ張ったせいで思い切り尻もちをついてしまったとか、そういう失敗が大切で尊いのではないかとわたしは思う。もちろん、ないとは思うけれど、その収穫体験で園児が大ケガをしたり、命を落としたりといったことは未然に防がなければならない。それは大人たちの責任であり義務だ。しかし、ある意味小さな失敗や中くらいの失敗などはさせたほうがいいのではないか。それを通してこそ子どもたちは成長していくのであって、ありとあらゆるリスクや危険などを事前に取り除いてしまうことはその機会を奪ってしまう。
 少し前に、わたしにとって人生初のお仕事をすることへの最初のステップとして、市役所の人と障害者の就労を支援するジョブコーチの人と面談をさせてもらった。その時にジョブコーチの人が少し不安そうに言った言葉で忘れられないのが「わたしはあなたに失敗してほしくないんですよ」という一言で、おそらく精神障害でメンタル弱めのわたしを思って言ってくれたのだと思う。わたしが最初から失敗してしまうことによって精神的なダメージを受けて傷付いて挫折して立ち上がれなくなってしまわないように。だから、失敗してほしくない。その気持ち、すごく良く分かる。実際、大学中退という大きな失敗をしているわたしにとってその言葉の意味するところは痛いほど分かる。トラウマまではいかなくてもわたしの人生に今もしこりとなって残っているからだ。その心優しきジョブコーチはわたしが失敗しないように目の前の障害物を取り除くことを考えてくれている。
 そのジョブコーチの一言に対してわたしは何と返したか。「人生はトライ&エラーだと思っていますから失敗してもいいと思っています」。そう言った時、そのコーチは何だかほっとしたような顔をした。
 わたしのヨガの師匠が事あるごとに言うのが「とりあえずやってみよう」。これ、すごくいい言葉だなぁって思う。でも、なかなかこれができなくてみんな悩んでいるわけだから、そうスパっとは思い切れないものではあるのだけれど。
 とりあえずやってみる。やってみて、やりながら考えればいい。と頭では分かっているものの、「師匠、こわいですよ。仕事をやってみてうまくいかないのが。失敗するのが」と言いたくもなってくる。最初の一歩が、最初の一歩が一番こわくて、一番大変で、一番勇気が必要なのかもしれない。でも、何かを得るためには冒険しなければならない。冒険家があそこまで危険なことをやれるのは、ただ命を粗末にして無駄死にしたいからなどではなくて、それだけのリスクがあっても得られるものがあるからだ。自分の部屋にこもって、そこから一歩も出ないでノーリスクでは本当に心躍る体験や経験などはできないと思う。
 こわいけれど一歩。わたしの今の話なら一歩踏み出して仕事をしてみる。始めてみる。それが吉と出るか凶と出るか。それはやってみなければ分からないし、うまくいくかどうかもさっぱり分からない。けれども、やってみれば必ず何か得られるものはある。それが甘かろうが苦かろうがゼロではないはず。そして、やめたいと思ったらやめればいいし、やめて別のものを探してもいいし、あるいはそれをやる前と同じ状態へと戻ってもいい。そう考えると何も失ってはいないし、むしろ失敗したとしても失敗したという貴重な経験を得ることができているのだから無駄な骨折りではない。わたしが高校生の時に数回ほどお世話になった臨床心理士の先生がしみじみ「人生にはね、無駄なことはないんだよ」と言っていた言葉の意味が少しだけ分かってきたのかもしれないと今になって思ったりもする。
 ヨガの師匠があっさりと言う「とりあえずやってみよう」という魔法の言葉。これを実践できるかどうか。それが人生の豊かさに直結していることはたしかなこと。とりあえず、か。でも、その一歩が、一歩が、なかなか大変なわけで。
 井の中の蛙が大海に出たらきっとクラクラする。けれど、その眩いばかりのクラクラが最高に楽しくて面白いんだろうなぁ。
 やってみるか。でも、まだこわい(どっちなんだよ!)。

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